これを書いている今日は、お天気の良い日です。
子ども達の遊ぶ声が遠く聞こえてきます。
懐かしい日常です。
私の人生にも、子育ての時期がありました。
子どもは3人。
子育ては賑やかで自分も子どもに還るかのようでした。
ずっと良い母親だ、と思っていました。
でも、子どもたちが成人してみると
「そうではなかった」
という厳しい反射が届くようになりました。
子ども達が動物的なレベルで母親を求めるうちは、良母でいる事は簡単です。
でも彼らが言語を持ち、自分なりの哲学、信念を持った時、満たされなかった母の愛の請求が始まるようです。
私はどんな風であれば良かったのでしょう?
まるで、自分の人生の収支を突き付けられて来るかのようです。
注)決して、正論ではないし個人的な人生を反映した考えの一つです
Contents
世間様、あるいは人類は<母親の愛>を美化し過ぎでは無いのかしら?
世間では母の愛は無条件の愛の体現として高く評価しますが、母親=神じゃないですよね?
男女の愛を美化するように、母親の愛も美化されていませんか?
母性は慈しみ与えるけれど、子どもを食い殺す側面もある事を見逃さないで下さい。
男性神が世界を支配する前の世界を見て見れば一目瞭然。
子どもを食い殺す女神の存在があります。
母性と言うものは他の二元性を持つエネルギーと同じく、危険な一面を持つエネルギーでもあるのです。
それを人生の早いうちに思い出させてあげるのはよりベターな事ではないですか?
男性にも、子ども達にも。
母親は聖母じゃない、人間がする自己犠牲の営みの一つです。
母親にも自我があり、自己保存の本能があります。
自分を優先したい!その気持ちを押さえて子どもを愛するわけです。
そこには人には言わない自己犠牲が一杯ありますよね。
でも<母性>の二文字でそれは当たり前と見なされる事が多いのです。
母親は無条件の愛を与える善きものでもあるかもしれないけれど一日でなれるものでもない。
たゆまぬ、日々の小さな自己犠牲を積み重ねて、やっとたどり着くものでもあるのです。
長い道の途中、ある日ブチ切れたって、不思議はないと思いませんか?
人間なんだから、欠点もある未熟さもある。
それでも完全性だけは求められる。
【母性=与える、愛】
その公式は外して欲しいですわ。
完璧なマザーがそうそういるわけがない。
仏門に入って、厳しい修行をして悟りを開く人もいれば、親になって子育てで鍛えられる人もいる。
親は厳しい娑婆の修行ですわ。
子は不完全なままでも、親には完全性が求められる
「なんでもっと無条件に愛してくれなかったんだ?」
「私を全存在丸ごと愛してください。」
「母親なら、もっとこんな風にするだろう。母親なら・・・」
愚息を愛し、アホ娘を愛し、もっと、もっと愛してください。
そうなるともう私としては
「神様の所へ行ってください」
という気分になります。
かつて得られなかった愛の取り立ては厳しくて、泣きそう。
脳内には完全なるマザーおり、リアルな世界にはそこに至らない私がいる。
子は正しいと思って、私を責める。
「母親なのに・・・母親なんだから・・・・」
彼らの記憶には「不足」があり、私の記憶には「やった!」と言う事実がある。
噛み合わない記憶では、何が足りなかったのか?さえ見当もつきません。
だって、自分の限界の範囲ではやるべき事、それ以上のことをやってきたのですから
どんなに理想の愛があったとしても、親は自分のリミットの中で子育てをする。
そうじゃなくては育てられないでしょう。
限界の外では愛は絵に描いた餅になってします。
愛も飢えた気持ちも世代伝播していくのでしょう。
子どもの母親を求める気持ちは強いです。
成人した子どもが幼少期に得られなかった母の愛を取り戻そうとする欲求は正しくも激しいのです。
私は母ですが、母の子どもでもありました。
そして私自身にも得られなかった母の愛を得たいと言う慟哭がありました。
今、私の子ども達と同じです。
コインの表と裏を経験させてもらっています。
母親から充分な愛を得られないまま母になった女は、子どもに充分に与える事が出来ないのでしょう。
自分が持っていないものを子どもに与える事は出来ない、ですからね。
ここに、かつて子どもであった私の
今、母である私の苦しみや渇望や飢えがあります。
私の娘も、やがて親となった時には同じように愛の取り立てに鼻白むのでしょうか?
大人になれなかった子どもは、親の未熟さが許せない。
子どもが充分に精神的に成熟していれば、親の未熟さ、女神ではない母親を許すそうです。
でも、そうでない場合は許しません。
私も母が許せなかった。
私自身が母親を許せなかったのだから、得られなかった愛を求めて牙をむいてい来る子どもたちを責める事は出来ません。
裏を返せば、彼らの叫びは私の慟哭ですから。
私がまったくお門違いのような要求を突き付けられているように感じていても、彼らは真剣です。
そうなるだけの不足や欠けを感じているのでしょう。
彼らの姿はかつての私で、今の私はかつての母です。
母もきっと・・辛かったのでしょう。
人間関係があるのは・・根源とのつながりを思い出すため。
恋をしてパートナーに理想を求めるのも、親子の間で葛藤がうまれるも
同じ動機があるから、だと思いませんか?
それは
【大きな存在とのつながりを回復したい】と言う願いです。
水平の視点、思考で探すうちは、メガネ違いの人間ばかりが視界に入り、飢えは増すばかりですが
視点を上に向けて、自分よりも大きな存在を意識すれば、そして運良く邂逅があれば
孤独は消えて、満たされるでしょう。
人が本当に求めてやまないものは母の愛でもなく、恋人の愛でもなく
生命の根源とのつながりではないでしょうか。
そのつながりは外側に求めるものではなく、内側に見つけるもの
みんな外側の事象の中で、繋がりを見つけようと必死ですが
(根源との)つながりは内側の次元で見つける事が出来る。
そう確信した時に、
本当に大人になるし、親が許せようになるのかな、と思えます。
親にしがみ付かなくても、必要な物は自らの内に見出せるのですから。
親はより大きな存在の依り代のようなモノなのです、たぶんね。
子どもの頃、親に抱かれて安心していた。
その記憶はもっと古い記憶を誘うのでしょう。
宇宙の根源とのつながりの中で安堵していた記憶。
得られなかったものも、与えればある事になる。
親から与えられなかった子どもは自分が親になっても、子どもに与える事が出来ないままですか?
それでは、何時まで経っても、堂々巡りです。
無いから無い・・のではない。
と、とんち話のような考えが響きます。
量子的な転移と言うか、心理学的にと言うか
無くても、あると思って行動すれば、あると思って向かい合えば
《ある》
そう言うものらしいです。
と言う事は・・やってみるしかない、わけですよ。
いまさら怯むような歳でも無いし、傷が増えたってどうって事ありませんしね。
ここまで来たのだから、やってみましょう。
また、遥かな一歩ですわあ・・・
#母性愛 #母と娘
#自己犠牲と奉仕
#母性の持つ二極性
#愛と不足の世代伝播
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