みんなのためって、誰のため?

みんなのためになることをする

それが人としての成熟の証であったり

スピ的な一つの到達点のように語られたりしてますよね?

でも、、嘘臭くないですか?

 

なぜなら、<みんなのため>という言葉にはビジネスのフィルターかかりませんか

多くの人が欲するものを提供すればビジネスは成立しますよね?

だから、みんなの問題を解決したり、求めるものを提供する事が求められますよね。

私の利益はみんなの利益、共存共栄、利他の精神であるとかなんとか言っちゃって

それは善の名を、正義の名をコーティングしてるだけなんじゃないの?

言葉が汚い?

 

だって、皆に理解できることだけが、みんなのためになる事なのかな?

理解されなかったら、それはまがい物や不要のものなのかな?

単に一足早く、皆よりも理解した、だけかもしれないじゃない?

 

だから、私達はみんなのため、と思うなら

理解されなくても行動する勇気が必要な事もあるんじゃない?

笑われるかもしれない、罵られるかもしれない、仲間はずれになるかもしれない。

ひどいと暴力を受けるかもしれない。

 

それでもあなたは、私は

みんなのためになることをしますか?

と言うことなんじゃないかな?

 

だから、みんなのためにと言う行動は生半可な覚悟では、本当は無理なことなんだろうな、と思っちゃいます。

 

皆が理解する<みんなのため>をしようと思うと他人の顔色をうかがうようにならないか?

他人の承認を、求めるようになって自分を信じる力が萎えてしまわないか?

自分よりも他人を信じるようになるんじゃないかな?

と、気になるのです。

老婆心かな?

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ABOUTこの記事をかいた人

ようこそ、いらっしゃいませ。あなたが来てくれてうれしいです 振り返ってみると幼い頃の記憶は幼稚園の入園式から、それ以前はあやふやです。小学生の頃の夢は宇宙飛行士、中学生の頃は漫画家。けど誰にも言えなくて、もっと現実的な美術系の学校に行くことにしました。 でも、大学受験コケました。合格圏にいたはずの4年生大学を面接で失敗、その年は補欠の繰り上がりも無く、あえなく短大へ。人生の厳しさを知った春でした。ショックだった。でも今思うと、それは必然だったと思う。だって、その短大に行かないと出会えないと言う人が未来で待っていたから。いわゆる前世の恋人。 前世をトレースするかのように恋をして、同じように破局しました。私としては成就させたかったのだけれど・・ ここでも、ショックでフリーズした私を見逃さなかったのが実の母。 失恋の痛手で自己愛も自尊心も遥かにゼロに近くなっていた私は母の言いなりに見合いをして結婚してしました。 そこからが魂の修行の日々、過酷だったあ。 結婚して7年間は本当の自分を箱に入れて、母の言いなり、お人形のような生活に甘んじました。 7年目の早春、はっと我に返って唖然としました。 嫌いなものを黙って受け入れた人生は、大嫌いなもので満ち溢れていました。ウンザリしました。乳飲み子を含む三人の子どもがいて、介護一歩手前の祖父母がいて、しがみついて話さない母親、好みじゃない夫。 ここから私がもともといた場所までは遥かに遠い、地の果てまで飛ばされたかのようです。 ここから自分を取り戻していく泥沼を歩くような人生が始まりました。 手始めに人生で初めて母に「NO!」と言い、ついでに夫にも「これ以上子どもは生まないから。」と言いました。 弱い、と思っていた存在が逆らうと、ハチの巣を突っついたような気分になるようで、二人からの風当たりは強くなりました。 それでも後戻りする気はないし、前進あるのみ、心理学を学び、精神世界へ足を踏み入れました。そのうち直観力も自然に身につき、良きメンターに巡り合いました。 今思えば敵と思っていた存在が一番のメンターだったかもしれない。彼らがいなくて、ただの幸せな人生だったら、ここまで来なかった。 今、使命を実行できるのも彼らのおかげです。この場を借りて「ありがとう」