みんなのためになることをする
それが人としての成熟の証であったり
スピ的な一つの到達点のように語られたりしてますよね?
でも、、嘘臭くないですか?
なぜなら、<みんなのため>という言葉にはビジネスのフィルターかかりませんか
多くの人が欲するものを提供すればビジネスは成立しますよね?
だから、みんなの問題を解決したり、求めるものを提供する事が求められますよね。
私の利益はみんなの利益、共存共栄、利他の精神であるとかなんとか言っちゃって
それは善の名を、正義の名をコーティングしてるだけなんじゃないの?
言葉が汚い?
だって、皆に理解できることだけが、みんなのためになる事なのかな?
理解されなかったら、それはまがい物や不要のものなのかな?
単に一足早く、皆よりも理解した、だけかもしれないじゃない?
だから、私達はみんなのため、と思うなら
理解されなくても行動する勇気が必要な事もあるんじゃない?
笑われるかもしれない、罵られるかもしれない、仲間はずれになるかもしれない。
ひどいと暴力を受けるかもしれない。
それでもあなたは、私は
みんなのためになることをしますか?
と言うことなんじゃないかな?
だから、みんなのためにと言う行動は生半可な覚悟では、本当は無理なことなんだろうな、と思っちゃいます。
皆が理解する<みんなのため>をしようと思うと他人の顔色をうかがうようにならないか?
他人の承認を、求めるようになって自分を信じる力が萎えてしまわないか?
自分よりも他人を信じるようになるんじゃないかな?
と、気になるのです。
老婆心かな?
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