ギルガメッシュの頃から、人は不老不死を追い求めてたそうです。
最近ではメタバースとか、データとなって永遠の命を手に入れると言う話もあるらしいですが、仏教は死について面白い事を言っています。
胎児が十月十日、母体の中で成長し生れ出て来るように
死もこれから死んでいく人の体内で一年の間、成長してその時を迎えるそうです。
今日、もしこの世界を離れる人がいるとしたら、一年前から死が体内に宿っていたそうなのです。
死んでいく時が、死の誕生日。
なんだか、認識の枠が揺さぶられるような話ですね。
でも、一年前から死が宿る、と言うことなら、死に至るために一年間の猶予期間が与えられていると言うことでしょうか?
胎児を中絶するように、死への成長を阻めれば回避も可能、と言うことでしょうか?
人には生死を決める最後の分岐点が用意されている気がします。
分岐点を越えて、変更は無理、となってから一年目に成就する。
そう言えなくもない気がします。
赤ん坊は生後何日何年と数えて誕生日を祝う。
死は死んだ時が0歳その年に一歳になって、そこから三回忌、七回忌と法事を営んでいくもの。
もしかしたら死んで三年目、おめでとうって感じでしょうか?
残された身としては、なかなかそうも思いにくいですが、
旅立たれた方の中で、死が成長し、あるいは熟成されて行き、次の人生にいつか転ずる
見方を変えれば、死は違う捉え方が出来る者なのかもしれませんね。
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