生きるって何なのか?
猛暑が過ぎて、モノ思う季節が深まるほどに考えます。
考え込む理由の一つとして、友人の事があります。
一人、癌の末期を迎えた友人がいるのです。
あれは3月も末の頃の事。
「来月までもたないかもしれない。」
と連絡があり、息を飲み込みました。
「会うなら早いうちが良い」
と言われ片道2時間の運転、過去の色々振り捨てて会いに行きました。
生きていればこその諍いですから。
彼女は決して親友ではありません。
気にくわないことも我慢したことも一杯ありました。
でも、腐れ縁と言うのか、友情は続いたのです。
これまでの諍いは全部水に流す。
そういう覚悟が胸の中にありました。
私だけじゃなくて、家族も彼女の周りの人全部がそうだったと思います。
自分の感情を納め、彼女の最善を願ったに違いない人たちがいました。
彼女は4月を迎え、みんな喜び、夏をも無事に乗り越えました。
それがどれくらい稀有なことなのか?
私には考えようもないのですが。
ただ、人間って中々死ねないものなんだ。
と、学習しました。
そして中秋の満月が近づくころ、ずっと彼女を気遣ってきた私は、さすがに疲れを感じました。
もうダメだと言われながら、その時が来ないのです。
(決して、早く次元を越えろ、と言いたいわけでは無いですよ。)
(私だって、彼女と普通に話したいし。でもね・・)
毎日のようにラインを送り、彼女の気持ちを想像し、彼女を大事にします。
彼女の気持ちに寄り添おうとするほどに、私自身が悲しみや不安に沈んでしまう事も度々ありました。
(共鳴しちゃうんですよね。)
この状態はもう無理・・と思う頃に、秋月は欠け始め
また、連絡がありました。
「もう、ヤバイかもしれない。」
入院しての、緩和ケアが始まる、と言うのです。
また覚悟を決める私です。
今生の別れかと気を引き締めると
「頭では解っているけど、もう少し頑張る」
と、言うラインの返事。
(次元を超える気は、無いんだ・・・)
早く越えて行け!と言いたいわけではないけれど、何となく解ってしまった。
そんな気がしました。
脳内でつじつまがあってしまったのです。
この春からの、もしかしたらもっと前から・・・一連の流れの中で
みんなが彼女を許し受け入れた。
みんなが彼女のために動いてくれた。
みんなが愛を与え、優しさを贈り、姫に仕える臣下のように接してくれた。
だとしたら・・・(嬉しかっただろうな)
この半年、辛かっただろうし、頑張っただろうけれど、でも人生の夢が叶ったのではないかしら?
彼女は思えば、自分が一番大事な人でした。
貰うけれど、与えない人でした。
それにうんざりして少しづつ交際を控えるようになったのでした。
話すと楽しいのですよ、でも・・いつも気遣うのは私の方だけ。
そこに気づいたら、納得してしまいました。
彼女は病の淵にいながら、ある種の満足感、全能感を得ていたのではないかしら?
邪推かもしれないけれど、そう思うとストンとする・・
いろいろを水に流し、この半年も彼女のために日々ラインを送り、インスタを送り、気にかけて愛を与え続けた私。
彼女はそれを当然として受け取り、私は次元を越えていくからと大目に見て。
(甘やかしちゃったのかなあ・・・)
最後まで彼女は貰う人で、私は与え続ける人かあ・・
やられっちゃった感があって、腹立たしい。
彼女の全存在が、とは言いませんが
彼女のネガティブな一部分は病であることから恩恵を受けて、大満足だったのではないかしら。
エゴの戦略、と言うのでしょうか・・
なぜ、生きるのか?
その答えはなかなか難しいもののようです。
邪推してごめんね。
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