Message縄文 01 / 縄文の人々の意識の在り様

縄文コミュニティの話

この話は過去の話です、日本の古い時代です。

男も女も子どもも、特に区別は無かった。

お互いがお互いを思いやる、ケアをする社会で、自分と他者を分ける境界線も無かった。

個人でもあるけれど全体でもあった。

 

<私>と言うよりも<私達>で暮らしていました。

一種クローンのようだったかもしれません

人は自由に自身の視点を移す事が出来ました。

自分の内側から世界を理解することもあれば、他者の視点から自分を見たり、世界を見たりする事も出来ました。

 

視点をもっと上げれば、コミュニティ全体が見えた。

コミュニティと大地、自然、そう言うものとの関りを理解する事も出来ました。

世界との共感が強かったのです。

食べる事は食べられる事であり、食べられることは世界への奉仕でもあったのです。

食べるという行為一つからでも2極を知り、世界の統合を知る事が出来ました。

食べるは文化であり、社会参加だ

 

人々は死を恐れなかった

死も視点の移動であり生命は続いて行く。

死も生の一つの段階と捉えていました。

 

所有も無く復讐も無く、妬みも無かった。

他者はもう一人の自分だからです。

自分と言う意識、自分だけでなく存在する命、コミュニティ全体で自分だから。

 

個人の死は損失ではあるが、大きな自分は生き、誰かがそれを穴埋めする

(魚の群れみたいなものかな?)

今は人の意識が一番弱体化された状態。

一人は<独り>でしかない。

つながりが断たれている。

見える物しか理解しない、信じない、

存在を認めていない体がある。

そこを開ければつながる世界がある、本当のパワーはそちらの世界にある。

 

 

 

 

 

Message:靖国神社

Message:麻賀多神社

 

 

 

 

 

 

 

 

#日本人の秘密 #縄文文化圏

#アイヌ以前の文化

#争いの無い社会

#〇

 

 

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ようこそ、いらっしゃいませ。あなたが来てくれてうれしいです 振り返ってみると幼い頃の記憶は幼稚園の入園式から、それ以前はあやふやです。小学生の頃の夢は宇宙飛行士、中学生の頃は漫画家。けど誰にも言えなくて、もっと現実的な美術系の学校に行くことにしました。 でも、大学受験コケました。合格圏にいたはずの4年生大学を面接で失敗、その年は補欠の繰り上がりも無く、あえなく短大へ。人生の厳しさを知った春でした。ショックだった。でも今思うと、それは必然だったと思う。だって、その短大に行かないと出会えないと言う人が未来で待っていたから。いわゆる前世の恋人。 前世をトレースするかのように恋をして、同じように破局しました。私としては成就させたかったのだけれど・・ ここでも、ショックでフリーズした私を見逃さなかったのが実の母。 失恋の痛手で自己愛も自尊心も遥かにゼロに近くなっていた私は母の言いなりに見合いをして結婚してしました。 そこからが魂の修行の日々、過酷だったあ。 結婚して7年間は本当の自分を箱に入れて、母の言いなり、お人形のような生活に甘んじました。 7年目の早春、はっと我に返って唖然としました。 嫌いなものを黙って受け入れた人生は、大嫌いなもので満ち溢れていました。ウンザリしました。乳飲み子を含む三人の子どもがいて、介護一歩手前の祖父母がいて、しがみついて話さない母親、好みじゃない夫。 ここから私がもともといた場所までは遥かに遠い、地の果てまで飛ばされたかのようです。 ここから自分を取り戻していく泥沼を歩くような人生が始まりました。 手始めに人生で初めて母に「NO!」と言い、ついでに夫にも「これ以上子どもは生まないから。」と言いました。 弱い、と思っていた存在が逆らうと、ハチの巣を突っついたような気分になるようで、二人からの風当たりは強くなりました。 それでも後戻りする気はないし、前進あるのみ、心理学を学び、精神世界へ足を踏み入れました。そのうち直観力も自然に身につき、良きメンターに巡り合いました。 今思えば敵と思っていた存在が一番のメンターだったかもしれない。彼らがいなくて、ただの幸せな人生だったら、ここまで来なかった。 今、使命を実行できるのも彼らのおかげです。この場を借りて「ありがとう」