人生に色濃く残る、母と言う<ハリボテ>の縛り

普段平気なふりを指定はいますが、

間違いなく、私は傷ついた人間の1人です。

傷ついて大人になりきれないまま時間が過ぎてしまった大人の一人です。

無視されたり、無反応で返されることが怖いです。

嘲笑されるのも嫌ですねえ。

即、嫌われたと思ってしまいます

 

例えば2023年の賀状、

来る筈の年賀状が来ない。そもそも元旦に来ない。

元旦に来ないと言う事は最初から用意していなかったらしい。

届いた私の年賀状を見ても年賀状を書かないらしい。

 

これはもう関係がこじれて、嫌われてしまったに違いない。

あれが良くなかったのか?これが良くなかったのか?

自分の何が良くなかったのか考えます。

嫌われものの私かあ。

と即、結論が出てしまいます。

それが過ちの思考とは考えもしません。

 

人生のあるある、正解。

そう思えてしまうのです。

また友人を無くしたな、と思いながら郵便ポストを開けると

年賀状がいくつも重なって入っていました。

ここで初めて気づくのです。

 

年賀状って年始に一回配ると、あいだが開く。

一つの年賀状にはこうありました。

「年末に悲しいことがあって気持ちが沈んでいました。」

とりあえず嫌われたわけではなさそうでした。

人それぞれの人生の出来事がある・・・

そして、現実が一段落つくと、思い出すのが母の事。

そうです。

私が嫌われたかどうか、ずっと心配しなくてはならなかったのは母でした。

自分の気分しだいで私を無視していたのは母でした。

幼かった私は母の気持ちを察知して喜ぶようにしないと嫌われてしまうのでした。

母に嫌われてしまったら、幼い私は生き抜けなかった。

成人しても、恐ろしいかな、他者に重ねてしまうのです。

 

人生のこんなところまで来てもまだ呪縛がある。

何て恐ろしいことだろう。

母を他者のなかに見て、恐れてきた。

恐ろしいのは他者ではなくて母だ。

憎しみ、憎悪そして、情けない。

母はもう認知症で何を責めてもどうにもならないのに、私は母から解放されていないと言う訳か。

 

こう言う事に区切りをつけられるのが本当の大人になる事で、

宇宙的な視点から見れば、3次元的な縛りから解放されると言う事で

人類的に見れば進化と言う事になるのでしょうねえ。

私はまだまだのようです、まだ進化の可能性がある。

 

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ABOUTこの記事をかいた人

ようこそ、いらっしゃいませ。あなたが来てくれてうれしいです 振り返ってみると幼い頃の記憶は幼稚園の入園式から、それ以前はあやふやです。小学生の頃の夢は宇宙飛行士、中学生の頃は漫画家。けど誰にも言えなくて、もっと現実的な美術系の学校に行くことにしました。 でも、大学受験コケました。合格圏にいたはずの4年生大学を面接で失敗、その年は補欠の繰り上がりも無く、あえなく短大へ。人生の厳しさを知った春でした。ショックだった。でも今思うと、それは必然だったと思う。だって、その短大に行かないと出会えないと言う人が未来で待っていたから。いわゆる前世の恋人。 前世をトレースするかのように恋をして、同じように破局しました。私としては成就させたかったのだけれど・・ ここでも、ショックでフリーズした私を見逃さなかったのが実の母。 失恋の痛手で自己愛も自尊心も遥かにゼロに近くなっていた私は母の言いなりに見合いをして結婚してしました。 そこからが魂の修行の日々、過酷だったあ。 結婚して7年間は本当の自分を箱に入れて、母の言いなり、お人形のような生活に甘んじました。 7年目の早春、はっと我に返って唖然としました。 嫌いなものを黙って受け入れた人生は、大嫌いなもので満ち溢れていました。ウンザリしました。乳飲み子を含む三人の子どもがいて、介護一歩手前の祖父母がいて、しがみついて話さない母親、好みじゃない夫。 ここから私がもともといた場所までは遥かに遠い、地の果てまで飛ばされたかのようです。 ここから自分を取り戻していく泥沼を歩くような人生が始まりました。 手始めに人生で初めて母に「NO!」と言い、ついでに夫にも「これ以上子どもは生まないから。」と言いました。 弱い、と思っていた存在が逆らうと、ハチの巣を突っついたような気分になるようで、二人からの風当たりは強くなりました。 それでも後戻りする気はないし、前進あるのみ、心理学を学び、精神世界へ足を踏み入れました。そのうち直観力も自然に身につき、良きメンターに巡り合いました。 今思えば敵と思っていた存在が一番のメンターだったかもしれない。彼らがいなくて、ただの幸せな人生だったら、ここまで来なかった。 今、使命を実行できるのも彼らのおかげです。この場を借りて「ありがとう」