Peru/秩序が一瞬でサバイバルに変わる時

ペルー旅の中盤、マチピチュ村に一泊しての帰り道。

陽気な観光列車に乗ってオリャンタイタンボ駅へ移動です。

 

車内は平和ですよ。

出発すると音楽と踊りが始まり、ちょっとした和気藹々の、パーティータイム。

そして、定番のファッションショー。

美しい山々、午後の空にはすでに月。

あと30分でオリャンタイタンボと言う頃に思わぬ情報が入りました。

「今日はお祭りで、村の道路は封鎖」

顔色の変わる添乗員。

 

何々?何が起きているの?

どうやら私たちを迎えに来る手筈のバスが村の中に入れない。

と言うことらしい。

急遽、降車駅を一駅伸ばしたいと要望しても、鉄道会社のほうが応じない。

このあたりがラテンと言うものだろうか?

 

で、どうなったか、と言うと

【自分の足が頼り】

バスの待っている村はずれまで、荷物を持って歩く。

 

(やっと歩ける♪)

喜んだのは私だけだったかも

深い谷間にある道、山に遮られてもう太陽の光が届かなくなっています。

急速に夜になろうとしています。

 

車のヘッドライトが光り、土ぼこりが舞い、道は舗装されていません。

旅行者は線路と並走する道路を歩きます。

時に線路の上をも歩きました。

 

車がね。一台くらい谷に落ちてもおかしくない。と思うほど込み合ってます。

秩序が崩壊して、ごちゃ混ぜ。

 

アクシデントに優雅な旅は崩壊、

 

「まさか線路を歩くことになるなんて、線路を歩いたことなんかないわ!」

と声を上げるのは同行のマダム。

私はやっと歩けると、内心大喜びなので、彼女の悲痛さに共感できない。

ごめんね、この程度でブーブー言う奴って何?

と思った( ´∀` )

 

危機意識と言うか、危険と判断するレベルの差を感じる。

<続く>

 

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ABOUTこの記事をかいた人

ようこそ、いらっしゃいませ。あなたが来てくれてうれしいです 振り返ってみると幼い頃の記憶は幼稚園の入園式から、それ以前はあやふやです。小学生の頃の夢は宇宙飛行士、中学生の頃は漫画家。けど誰にも言えなくて、もっと現実的な美術系の学校に行くことにしました。 でも、大学受験コケました。合格圏にいたはずの4年生大学を面接で失敗、その年は補欠の繰り上がりも無く、あえなく短大へ。人生の厳しさを知った春でした。ショックだった。でも今思うと、それは必然だったと思う。だって、その短大に行かないと出会えないと言う人が未来で待っていたから。いわゆる前世の恋人。 前世をトレースするかのように恋をして、同じように破局しました。私としては成就させたかったのだけれど・・ ここでも、ショックでフリーズした私を見逃さなかったのが実の母。 失恋の痛手で自己愛も自尊心も遥かにゼロに近くなっていた私は母の言いなりに見合いをして結婚してしました。 そこからが魂の修行の日々、過酷だったあ。 結婚して7年間は本当の自分を箱に入れて、母の言いなり、お人形のような生活に甘んじました。 7年目の早春、はっと我に返って唖然としました。 嫌いなものを黙って受け入れた人生は、大嫌いなもので満ち溢れていました。ウンザリしました。乳飲み子を含む三人の子どもがいて、介護一歩手前の祖父母がいて、しがみついて話さない母親、好みじゃない夫。 ここから私がもともといた場所までは遥かに遠い、地の果てまで飛ばされたかのようです。 ここから自分を取り戻していく泥沼を歩くような人生が始まりました。 手始めに人生で初めて母に「NO!」と言い、ついでに夫にも「これ以上子どもは生まないから。」と言いました。 弱い、と思っていた存在が逆らうと、ハチの巣を突っついたような気分になるようで、二人からの風当たりは強くなりました。 それでも後戻りする気はないし、前進あるのみ、心理学を学び、精神世界へ足を踏み入れました。そのうち直観力も自然に身につき、良きメンターに巡り合いました。 今思えば敵と思っていた存在が一番のメンターだったかもしれない。彼らがいなくて、ただの幸せな人生だったら、ここまで来なかった。 今、使命を実行できるのも彼らのおかげです。この場を借りて「ありがとう」