普賢院/宿坊/ ぬぐえない違和感、まさかねえ

夕ご飯はけんちん汁とエビの塩焼き、早めに食べて、ゆっくりしています。

思い出すほどに気になるのが、やっぱり高野山。

普賢院と言う宿坊での事。

分離して隔離、凄く工夫がされていた気がします。

旅が好きで、利尻島から与那国島まで旅をしたけれど

食事をする場所まで案内が入ったのはここだけ。

高野山で他に泊まった宿坊でも、こんなことはありませんでした。

洞窟風呂のある和歌山県のホテルも、阿寒湖のホテルも京都も、日光さえ

宿泊客はチェックインの時に、場所を説明され、そこまで自分で行った。

どこの宿泊施設も忙しくて、そんなことやってられない。

でも普賢院では部屋から食事をする別室まで案内がつく。

案内するまで出歩くな、と念を押されます。

で、通路を歩いていくと襖がどこも閉められていて誰とも会いません。

その時は何人かの日本人客と海外からの団体さんがいました。

部屋に通されると襖越しに日本語が聞こえますが、お互い姿を確認する事は出来ません。

粗末な食事が運ばれて、(高野山で食べた食事で一番粗末でした)

すぐに食べ終わってしまって、ぽつんと座っているのもつまらないので部屋に一人で戻りました。

住職さんが客が部屋にいるか確認しに来る宿坊

お寺ですから、ホテルほどの広さも無く迷いもせずに戻れました。

もともと案内がつく必要が感じられません。

部屋に戻って、間もなく住職さんが来ました。

私がどこにいるのか、確認しに来たのです。

なんか変じゃないですか?

私は考えれば考えあるほど違和感が拭えません。

凄く練られている気がしてしまうのです。

表向きの接客と、裏の目的があるんじゃないの?

表向きの宿坊としての脚本と、もう一つ違う脚本がそこにあるような気がしてしまうのです。

気のせい、考えすぎでしょうか?

チェックインの時には、住職さんから

  • どこから来たのか?
  • どんなルートできたのか?
  • 明日はどうするのか?

世間話のように聞かれましたが・・

入浴して、食事までは部屋にいなさい、とも言われたなあ

情報収集していたの?

その日、私が宿泊客にあったのはお風呂の時だけ。

二人の女性です。

これだと私がいなくなっても、誰も私の後を追えないでしょう。

宿泊名簿を見たとしても、その人たちと私を関連付けられるのかしら?

あの人たち、私の顔を覚えているかしら?

私が失踪したら?家族は探せるの?

あれだとチェックアウトしても、しなくてもどうとでも言えるんじゃない?

家族が私を探したとしても

チェックアウトしました、と言われればそれまでだよね。

だってね、実は部屋を替えてもらった後、夜中に何度か元居た部屋に戻ったのです。

眠れなかったし、どんな扱いを受けたか証拠写真を撮ろうと思って

そしたらね、零時過ぎて行ってみると、夜中なのに

既に、次の客のための布団がきれいに敷かれていたのです。

あれじゃあ、その気になった時は

私は宿泊していませんでした。

と言える。

(恐~!)

私がいなくなったら、どこを探すの?

高野山を探す?

この時は軽登山で一人で上がって行きましたが、山道は誰もいませんでした。

(今思うと、こわっ!)

山で遭難しました、と言われるのがオチですか?

それとも橋本、九度山の方に行ったとか言われるのでしょうか?

宿坊は関知しません、と言うでしょう。

宿泊に関してはどう感じようと私の自由だと言ってましたっけ。

(一応、会話は録音してます。)

そもそも泊まっていません。

と、言われてもそれまでです。

ですよね~~~

宿坊なのに、ミステリーに使えそうなネタが一杯

普賢院と言う宿坊を舞台にそれ系のお話が三つ四つ作れそう。

推理小説に出てきそうな、館内図に無い出入り口とか

ぐるっと回りこめる廊下とか、あるんだもの。

あっ、でも部屋は内側から鍵がかけられないから密室にはならないか。

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ABOUTこの記事をかいた人

ようこそ、いらっしゃいませ。あなたが来てくれてうれしいです 振り返ってみると幼い頃の記憶は幼稚園の入園式から、それ以前はあやふやです。小学生の頃の夢は宇宙飛行士、中学生の頃は漫画家。けど誰にも言えなくて、もっと現実的な美術系の学校に行くことにしました。 でも、大学受験コケました。合格圏にいたはずの4年生大学を面接で失敗、その年は補欠の繰り上がりも無く、あえなく短大へ。人生の厳しさを知った春でした。ショックだった。でも今思うと、それは必然だったと思う。だって、その短大に行かないと出会えないと言う人が未来で待っていたから。いわゆる前世の恋人。 前世をトレースするかのように恋をして、同じように破局しました。私としては成就させたかったのだけれど・・ ここでも、ショックでフリーズした私を見逃さなかったのが実の母。 失恋の痛手で自己愛も自尊心も遥かにゼロに近くなっていた私は母の言いなりに見合いをして結婚してしました。 そこからが魂の修行の日々、過酷だったあ。 結婚して7年間は本当の自分を箱に入れて、母の言いなり、お人形のような生活に甘んじました。 7年目の早春、はっと我に返って唖然としました。 嫌いなものを黙って受け入れた人生は、大嫌いなもので満ち溢れていました。ウンザリしました。乳飲み子を含む三人の子どもがいて、介護一歩手前の祖父母がいて、しがみついて話さない母親、好みじゃない夫。 ここから私がもともといた場所までは遥かに遠い、地の果てまで飛ばされたかのようです。 ここから自分を取り戻していく泥沼を歩くような人生が始まりました。 手始めに人生で初めて母に「NO!」と言い、ついでに夫にも「これ以上子どもは生まないから。」と言いました。 弱い、と思っていた存在が逆らうと、ハチの巣を突っついたような気分になるようで、二人からの風当たりは強くなりました。 それでも後戻りする気はないし、前進あるのみ、心理学を学び、精神世界へ足を踏み入れました。そのうち直観力も自然に身につき、良きメンターに巡り合いました。 今思えば敵と思っていた存在が一番のメンターだったかもしれない。彼らがいなくて、ただの幸せな人生だったら、ここまで来なかった。 今、使命を実行できるのも彼らのおかげです。この場を借りて「ありがとう」