それじゃないふりをした、あの話

かなり前の話なのですが

戦後の日本を分割統治、富士山に巨大な看板を設置すると言う話もあったと耳にしました。

驚くような話です。

今では京都があんな感じで、北海道もあんな風になってしまったし

都内に行くと、?マークが

「違いますよ〜」

と言うふりをして、道行く人々を見下ろしているのです。

 

目を疑います。

まるでSF映画の中の都市の風景のようです。

 

昔々、レオナルド・ダ・ヴィンチが聖母マリアの背景に【山のふりをした山じゃないもの】を描きました。

でも、現代にいたるまで、誰にもそれに気づかなかったのです。

みんな<山>だと思い込んでいて、そこにあったのに、見えてこない。

 

意識するためには現代にいたるまでの時間が必要でした。

今の私達も

「それがそれだ!」

と認識するために時間を必要とするのでしょうか?

 

それまでは何食わぬ顔で描かれたそれを

「可愛い♥」

と言って喜ぶのかもしれませんね。

 

 

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ようこそ、いらっしゃいませ。あなたが来てくれてうれしいです 振り返ってみると幼い頃の記憶は幼稚園の入園式から、それ以前はあやふやです。小学生の頃の夢は宇宙飛行士、中学生の頃は漫画家。けど誰にも言えなくて、もっと現実的な美術系の学校に行くことにしました。 でも、大学受験コケました。合格圏にいたはずの4年生大学を面接で失敗、その年は補欠の繰り上がりも無く、あえなく短大へ。人生の厳しさを知った春でした。ショックだった。でも今思うと、それは必然だったと思う。だって、その短大に行かないと出会えないと言う人が未来で待っていたから。いわゆる前世の恋人。 前世をトレースするかのように恋をして、同じように破局しました。私としては成就させたかったのだけれど・・ ここでも、ショックでフリーズした私を見逃さなかったのが実の母。 失恋の痛手で自己愛も自尊心も遥かにゼロに近くなっていた私は母の言いなりに見合いをして結婚してしました。 そこからが魂の修行の日々、過酷だったあ。 結婚して7年間は本当の自分を箱に入れて、母の言いなり、お人形のような生活に甘んじました。 7年目の早春、はっと我に返って唖然としました。 嫌いなものを黙って受け入れた人生は、大嫌いなもので満ち溢れていました。ウンザリしました。乳飲み子を含む三人の子どもがいて、介護一歩手前の祖父母がいて、しがみついて話さない母親、好みじゃない夫。 ここから私がもともといた場所までは遥かに遠い、地の果てまで飛ばされたかのようです。 ここから自分を取り戻していく泥沼を歩くような人生が始まりました。 手始めに人生で初めて母に「NO!」と言い、ついでに夫にも「これ以上子どもは生まないから。」と言いました。 弱い、と思っていた存在が逆らうと、ハチの巣を突っついたような気分になるようで、二人からの風当たりは強くなりました。 それでも後戻りする気はないし、前進あるのみ、心理学を学び、精神世界へ足を踏み入れました。そのうち直観力も自然に身につき、良きメンターに巡り合いました。 今思えば敵と思っていた存在が一番のメンターだったかもしれない。彼らがいなくて、ただの幸せな人生だったら、ここまで来なかった。 今、使命を実行できるのも彼らのおかげです。この場を借りて「ありがとう」