塵も積もれば・・幸せはせっせと探して見つけよう

カレンダーが変わって、9月になったらたとえ世界は30℃でも、秋物の服が並び、栗のお菓子を見かけるようになりました。

だから?

何となく、内省してしまう心の動きが始まってしまいました。

幸せってなんだっけ?

などと自問してみたりする、わけ。

人生を振り返ると、幸せとか満足とかふわふわした事を楽しんだことがあったっけ?

などと思ってしまう。(してるはずなんですけど)

私の人生は【障壁が目の前にあって、それを突破したら幸せになる】そんな感じだったし

敵を撃破すれば・・・だったなあ。

四角い箱の中に閉じ込めらた自分を解放する、それが最大の目標だった時もありました。

で、あらかたそれを達成した今

私は幸せで自由で、大満足で良いはず、なんだけど・・・

この敵のいない世界の、なんと気の抜けた事よ。

励みも、未来も目的も霧散してしまった( ´∀` )

敵がいてこその生き甲斐、ですかね?

そして、しみじみと思う。

四角い壁の中に閉じ込められていても良いじゃない、それを楽しめ、と。

そこを変えたら、幸せ、じゃなくて

それでも味わえる幸せをもっと大事にすれば良かった。

いつもと同じように夜が明けたとか

一日健康だったとか、自分の足で散歩が出来たとか

夕ご飯が美味しく、食べられたとか

探さなければ、見つからないような些細な幸せを自分にもっと与えればよかった。

幸せを味わいたければ、これなんだ。

と今にして思う。

これがないと、いかに素晴らしいことを達成しようと偉大な役目を得ようとも虚しい・・気がします。

私はこういう地道な訓練を実践してこなかったから、弱い。

それにどこか寂しい。

幸せは遠くに求めちゃダメ、ダメ。

今、探さないとね。

多分あからさまに分かる幸せってメディアの中だけじゃない?

などと思ってしまう。

今日からでも小さな幸せを見つけましょうかね。

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ABOUTこの記事をかいた人

ようこそ、いらっしゃいませ。あなたが来てくれてうれしいです 振り返ってみると幼い頃の記憶は幼稚園の入園式から、それ以前はあやふやです。小学生の頃の夢は宇宙飛行士、中学生の頃は漫画家。けど誰にも言えなくて、もっと現実的な美術系の学校に行くことにしました。 でも、大学受験コケました。合格圏にいたはずの4年生大学を面接で失敗、その年は補欠の繰り上がりも無く、あえなく短大へ。人生の厳しさを知った春でした。ショックだった。でも今思うと、それは必然だったと思う。だって、その短大に行かないと出会えないと言う人が未来で待っていたから。いわゆる前世の恋人。 前世をトレースするかのように恋をして、同じように破局しました。私としては成就させたかったのだけれど・・ ここでも、ショックでフリーズした私を見逃さなかったのが実の母。 失恋の痛手で自己愛も自尊心も遥かにゼロに近くなっていた私は母の言いなりに見合いをして結婚してしました。 そこからが魂の修行の日々、過酷だったあ。 結婚して7年間は本当の自分を箱に入れて、母の言いなり、お人形のような生活に甘んじました。 7年目の早春、はっと我に返って唖然としました。 嫌いなものを黙って受け入れた人生は、大嫌いなもので満ち溢れていました。ウンザリしました。乳飲み子を含む三人の子どもがいて、介護一歩手前の祖父母がいて、しがみついて話さない母親、好みじゃない夫。 ここから私がもともといた場所までは遥かに遠い、地の果てまで飛ばされたかのようです。 ここから自分を取り戻していく泥沼を歩くような人生が始まりました。 手始めに人生で初めて母に「NO!」と言い、ついでに夫にも「これ以上子どもは生まないから。」と言いました。 弱い、と思っていた存在が逆らうと、ハチの巣を突っついたような気分になるようで、二人からの風当たりは強くなりました。 それでも後戻りする気はないし、前進あるのみ、心理学を学び、精神世界へ足を踏み入れました。そのうち直観力も自然に身につき、良きメンターに巡り合いました。 今思えば敵と思っていた存在が一番のメンターだったかもしれない。彼らがいなくて、ただの幸せな人生だったら、ここまで来なかった。 今、使命を実行できるのも彼らのおかげです。この場を借りて「ありがとう」