母親殺し

私と娘の話をします。

親子なので言い出したら、切りのない話はいっぱいあるので今に限った話にします。

関西の方で暮らしていた、娘がこの秋に戻ってくることになりました。

部屋の準備などもあり、一気にと言うわけにもいかずお盆に短期の帰省をしました。

その時に言葉のすれ違いから、感情のもつれが起こり、

一度ゆっくり話すことになりました。

現在、娘が腹を立てている原因

娘曰く:「ママは私の話を聞いてくれない」

私曰く:「あなたを信頼して、好きなようにやりなさいと言っているだけ」

娘曰く:「決定してほしいわけじゃない、そこまでのプロセスを一緒に考えてほしい」

私曰く:「それで気が済んだからもういいわ」とか
「はい、でも」で話が終わったら、疲れる
自分で決めたいんだな、と思う

これまで、娘が帰省するたびに腹を立ててきた原因

娘曰く:「ママが弱くネガティブになっていくから」
「そうなってほしくなくて癇癪を起していた」
「以前のようにポジティブであってほしい」

私曰く:(はあ?・・?)

何でしょう?

うちの娘は私が老化したと言って怒ってるの?

ムカつくわ。

何と言えばいいのでしょうねえ?

歳をとってごめんなさい。ですか?

それって惨めな感じ。

未熟な子どもは親の老いを受け入れられない

母親の年を取っていく姿に不安や恐れを感じる気持ちは分かる

そうなってほしくないという気持ちもわかる。

私の母が高齢になり認知症が進んでいく過程で、私も母に対してのやるせない気持ちを怒りで示しました。

なんでこんなことが出来ないの?ってね。

でも、私の母は80過ぎですよ。

対して私はまだそこまででは?

全然そこに手が届きません。

なのに私の衰えが許せないという娘?

幼い子どもが作り上げる母親と言う偶像

それに、私がそこまでポジティブだったことがある?

誰の事を言ってるの?

・・考えて、分かりました。

娘の中にいるポジティブな私は、幼い娘が作り上げた理想の私、慈母です。

母性を求める子どもの闘い

私自身の若かりし頃がフラッシュバックしてきます。

私の理想とは違う現実に母に苛立ち、敵とみなしてきた私。

成人した私を子どものまま依存させようと、支配をやめない母親。

私自身が母になりながら、立ち向かっていきました。

未熟な母を滅してしまえば、母から自立できると思って必死でした。

だけど戦っても戦っても、母の子宮から出られない絶望的なもがき。

皆が言うのです

「お母さんはあなたの思うようにはなれない。あなたが大人になるしかない。」

でも、それは自分は飢えたままで、子どもには与えなくてはならないと言う

とっても苦しい選択なのです。

自分は空腹なのに、我慢して子どもの口にご飯を運ぶ、じゃあ私の飢えはどうなるの?

愛されたかったし、満たされたかった。

このままの私を母に受け入れてほしかった。

母と私とのやり取りを振り返り、娘とのやり取りを反芻しそういう事か、と得心がいきました。

殺すべきは実の母ではなかった。

内なる理想の母を殺す、そして現実の母親を受け入れる。

これだったんだなあ。

受け入れない限り、子宮からは出られない。

大人になれない。

人は親の弱さを受けい入れて、大人になる、と言う事かしらね。

理解したわあ。

人生の伏線回収が始まってるんだ。

娘よ、教えてくれてありがとう。

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ABOUTこの記事をかいた人

ようこそ、いらっしゃいませ。あなたが来てくれてうれしいです 振り返ってみると幼い頃の記憶は幼稚園の入園式から、それ以前はあやふやです。小学生の頃の夢は宇宙飛行士、中学生の頃は漫画家。けど誰にも言えなくて、もっと現実的な美術系の学校に行くことにしました。 でも、大学受験コケました。合格圏にいたはずの4年生大学を面接で失敗、その年は補欠の繰り上がりも無く、あえなく短大へ。人生の厳しさを知った春でした。ショックだった。でも今思うと、それは必然だったと思う。だって、その短大に行かないと出会えないと言う人が未来で待っていたから。いわゆる前世の恋人。 前世をトレースするかのように恋をして、同じように破局しました。私としては成就させたかったのだけれど・・ ここでも、ショックでフリーズした私を見逃さなかったのが実の母。 失恋の痛手で自己愛も自尊心も遥かにゼロに近くなっていた私は母の言いなりに見合いをして結婚してしました。 そこからが魂の修行の日々、過酷だったあ。 結婚して7年間は本当の自分を箱に入れて、母の言いなり、お人形のような生活に甘んじました。 7年目の早春、はっと我に返って唖然としました。 嫌いなものを黙って受け入れた人生は、大嫌いなもので満ち溢れていました。ウンザリしました。乳飲み子を含む三人の子どもがいて、介護一歩手前の祖父母がいて、しがみついて話さない母親、好みじゃない夫。 ここから私がもともといた場所までは遥かに遠い、地の果てまで飛ばされたかのようです。 ここから自分を取り戻していく泥沼を歩くような人生が始まりました。 手始めに人生で初めて母に「NO!」と言い、ついでに夫にも「これ以上子どもは生まないから。」と言いました。 弱い、と思っていた存在が逆らうと、ハチの巣を突っついたような気分になるようで、二人からの風当たりは強くなりました。 それでも後戻りする気はないし、前進あるのみ、心理学を学び、精神世界へ足を踏み入れました。そのうち直観力も自然に身につき、良きメンターに巡り合いました。 今思えば敵と思っていた存在が一番のメンターだったかもしれない。彼らがいなくて、ただの幸せな人生だったら、ここまで来なかった。 今、使命を実行できるのも彼らのおかげです。この場を借りて「ありがとう」