座右の銘は【過去は未来で、待ってる】

人生にはいろんな時があり、いろんな立ち位置を経験して過ぎていくものですよね。

私にもいろんな時、がありました。

そして、なぜか私の人生は大抵シリアスには終わらない。

かっこ良く決めたい時にコケるのよね。

 

そんな私にも人生の座右の銘が一つあります。

【過去は未来で待っている】

これです。

 

失ったと思うものとの再会が未来に設定されている。

そう言う事が何度かありました。

だから、失ったと嘆くことはないのかもしれないなぁ、と思うこともあります

 

例えば、最近はこんな事がありました。

10年くらい前に買ったダウンコートがなかなか手放せなくてボロボロになるまで使っていました。

が、新しいものが欲しいと思った時には、もう製造停止で影も形もありません。

同じものが無理なら類似品はないか?

と探したのです。

 

ネットでもショップでも探すのですが、さすが10年前と同じデザインは無かった。

出来る事はやったし、もう諦めようと思った時に、まさかの大発見!

 

ネットって素晴らしい

同じブランドの同じデザインを発見!

ただ一つ違っていたのはサイズ、それだけ。

ワンサイズ小さかったのですねえ

 

でも、まさかの過去は未来で待っていた!と思えました。

ほんとにねぇ。

サイズが合わなかった。と言うことに意味があると思うのです

 

失うと言うことは無いんだよ。

すべては循環

 

それを宇宙は教えたかったんじゃないかなあ。

決して過去にしがみ付け!とは言っていない。

そう言う事じゃないかな?

 

もう一度過去を確認して整理して手放しなさい。

もっと良いものを手に入れなさい。と言われている気がします

 

過去をありありと感じるのは手放すため。

過去をもう一度、見て、触って、よく考えて、手放しなさい。と言うことですよ

 

それもありがたい宇宙のシステムかな?

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ABOUTこの記事をかいた人

ようこそ、いらっしゃいませ。あなたが来てくれてうれしいです 振り返ってみると幼い頃の記憶は幼稚園の入園式から、それ以前はあやふやです。小学生の頃の夢は宇宙飛行士、中学生の頃は漫画家。けど誰にも言えなくて、もっと現実的な美術系の学校に行くことにしました。 でも、大学受験コケました。合格圏にいたはずの4年生大学を面接で失敗、その年は補欠の繰り上がりも無く、あえなく短大へ。人生の厳しさを知った春でした。ショックだった。でも今思うと、それは必然だったと思う。だって、その短大に行かないと出会えないと言う人が未来で待っていたから。いわゆる前世の恋人。 前世をトレースするかのように恋をして、同じように破局しました。私としては成就させたかったのだけれど・・ ここでも、ショックでフリーズした私を見逃さなかったのが実の母。 失恋の痛手で自己愛も自尊心も遥かにゼロに近くなっていた私は母の言いなりに見合いをして結婚してしました。 そこからが魂の修行の日々、過酷だったあ。 結婚して7年間は本当の自分を箱に入れて、母の言いなり、お人形のような生活に甘んじました。 7年目の早春、はっと我に返って唖然としました。 嫌いなものを黙って受け入れた人生は、大嫌いなもので満ち溢れていました。ウンザリしました。乳飲み子を含む三人の子どもがいて、介護一歩手前の祖父母がいて、しがみついて話さない母親、好みじゃない夫。 ここから私がもともといた場所までは遥かに遠い、地の果てまで飛ばされたかのようです。 ここから自分を取り戻していく泥沼を歩くような人生が始まりました。 手始めに人生で初めて母に「NO!」と言い、ついでに夫にも「これ以上子どもは生まないから。」と言いました。 弱い、と思っていた存在が逆らうと、ハチの巣を突っついたような気分になるようで、二人からの風当たりは強くなりました。 それでも後戻りする気はないし、前進あるのみ、心理学を学び、精神世界へ足を踏み入れました。そのうち直観力も自然に身につき、良きメンターに巡り合いました。 今思えば敵と思っていた存在が一番のメンターだったかもしれない。彼らがいなくて、ただの幸せな人生だったら、ここまで来なかった。 今、使命を実行できるのも彼らのおかげです。この場を借りて「ありがとう」