駅限定で,私だけに聞こえる姿無き声4

去年の夏ごろから始まった、駅の構内で聞こえる姿無き声

9月に入っても、まだ続く。

 

「お~い」「お~い」くらいに小さくなってたし。

連呼されることも無くなってきました。

でも、何がどうなると聞こえて、何がどうなると聞こえないのか

全く見当がつきません。

まるで、あちらの気分次第。

 

自分でコントロールできない状態と言うのは、メンタルがやられる。

コントロール出来るならストレスにもならなけど、もうちょっとで改札を抜ける!

と思って、ホッとしたその刹那に

「お~い!」

とやられるとがっくり来ます。

 

例えば、この間電車を利用した時は、こんな様子でした。

そう午前11時頃かな、駅の改札にいました。

改札に近づいても声は聞こえてこない(これは稀なること)

ハラハラしながら歩いて行くとやった!何も聞こえずにホームに上がれた。

ホームに上がってしまえば、なぜか声は聞こえないので安心。

(もう聞こえなくなったと言う事だろうか?・・)

 

そのまま乗り継ぎで東京駅を利用。

いつもだと、声の主は東京駅が大好きで構内を歩いていると声をかけてくる。

トイレに入ったら大変・・・連呼ですわ

 

この日は忙しさに紛れて、声の事は忘れて歩いていました。

はっと気が付くと声がしない!!

(これはもしかしたら、もう聞こえなくなったのでは?)

気持ちが前向きになり、自信がついた感じ( ´∀` )

 

そして帰り道

日が暮れてしまった、いつもの駅で電車を降ります。

沢山の人に紛れて行けば気づかれまい。

このまま・・・このまま改札を抜ければ、あと少し

10m、5m、あと少し

「お~い」

・・・・ダメだったかあ。

あと少し、というところで希望やら期待やらを打ち砕かれる感じが嫌。

改札を出てしまえば振り返っても声はしない。

 

何がトリガーになっているのか?

さっぱりわからない。

 

日常生活で聞こえないのが、せめてもの事

夕食のメニューで頭をいっぱいにして帰り道を急ぎました。

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ABOUTこの記事をかいた人

ようこそ、いらっしゃいませ。あなたが来てくれてうれしいです 振り返ってみると幼い頃の記憶は幼稚園の入園式から、それ以前はあやふやです。小学生の頃の夢は宇宙飛行士、中学生の頃は漫画家。けど誰にも言えなくて、もっと現実的な美術系の学校に行くことにしました。 でも、大学受験コケました。合格圏にいたはずの4年生大学を面接で失敗、その年は補欠の繰り上がりも無く、あえなく短大へ。人生の厳しさを知った春でした。ショックだった。でも今思うと、それは必然だったと思う。だって、その短大に行かないと出会えないと言う人が未来で待っていたから。いわゆる前世の恋人。 前世をトレースするかのように恋をして、同じように破局しました。私としては成就させたかったのだけれど・・ ここでも、ショックでフリーズした私を見逃さなかったのが実の母。 失恋の痛手で自己愛も自尊心も遥かにゼロに近くなっていた私は母の言いなりに見合いをして結婚してしました。 そこからが魂の修行の日々、過酷だったあ。 結婚して7年間は本当の自分を箱に入れて、母の言いなり、お人形のような生活に甘んじました。 7年目の早春、はっと我に返って唖然としました。 嫌いなものを黙って受け入れた人生は、大嫌いなもので満ち溢れていました。ウンザリしました。乳飲み子を含む三人の子どもがいて、介護一歩手前の祖父母がいて、しがみついて話さない母親、好みじゃない夫。 ここから私がもともといた場所までは遥かに遠い、地の果てまで飛ばされたかのようです。 ここから自分を取り戻していく泥沼を歩くような人生が始まりました。 手始めに人生で初めて母に「NO!」と言い、ついでに夫にも「これ以上子どもは生まないから。」と言いました。 弱い、と思っていた存在が逆らうと、ハチの巣を突っついたような気分になるようで、二人からの風当たりは強くなりました。 それでも後戻りする気はないし、前進あるのみ、心理学を学び、精神世界へ足を踏み入れました。そのうち直観力も自然に身につき、良きメンターに巡り合いました。 今思えば敵と思っていた存在が一番のメンターだったかもしれない。彼らがいなくて、ただの幸せな人生だったら、ここまで来なかった。 今、使命を実行できるのも彼らのおかげです。この場を借りて「ありがとう」