人は成人してもなお、胎児の夢を見ているのか2

母性と言うものは難儀なものですよね?

そう思いませんか?

生み落とした我が子を憎しみを込めて見つめる母親はいませんが

どこかで、バランスを崩すと、母は一気にダークな存在になります。

母って難しい(ため息)

 

そう言う私も母の一人ですが、まだ自分自身の母親に翻弄されています。

心身ともに母親から独立すると言う事は、とても難易度の高いです。

だって、哺乳類だし、母無しで生まれて来る事は出来ないから。

母親との出会いは、人生最初の運命かもしれません。

 

そんなヘヴィな話は横に置くとして、

私の<怠い>という体調の話に戻りましょう。

去年の夏あたりから怠さを感じ始めました。

それでも今年の3月くらいまでは、なんとかやり過ごしていたのですが。

4月に入ると坂道を転がり落ちるかのように疲労が溜まっていきました。

  • 駅の階段を上がり切る前に、息が続かなくなる。
  • 眼精疲労も酷い。
  • 何となく体が冷えている感じがするが、原因は特定できない。
  • 7.8時間、眠っても体が怠い。
  • 鼻炎かな?ひと月くらい鼻が効かない
  • 心臓がいきなり、ギュッとなったり、ドキドキしたりする。

 

5月はもっと怠くて、ご飯を食べるといきなり怠い・・動けない。

菜食に近い食事なので、消化しずらいものは少ないはずなのに、ですよ。

息をしているだけで、もうしんどい。(ため息が出ちゃう)

温泉に行くと良いよ、と聞いたので、行ってみると・・

帰宅後、さらにド~ンと疲労がたまりました。

何をやっていても疲れている~~~ううっ。

心臓も時々、キュンとしたり、鼓動が早くなったり忙しい。

食欲は無くなり、食べたくも無いところを無理に食べるとお通じも不通になる( ´∀` )

 

なんか変だけど、何が変なのか・・見当もつかない

OUT・・・3秒前

と思えた時に、満を持しての登場が

アレルギー療法の話>

 

家族が受診して、良いと言うので私も速攻予約!

息も絶え絶えに初診を受けました。

そこで、一番最初にアレルゲンとして特定されたのが

糖♡

ブドウ糖を始めとする、ほとんどの糖を私の脳は<危険なもの>ととらえていたようです。

摂取すればするほど、反応が強くなっていったらしいです。

だから、4.5月は底の底、どん底

だから、食べると体が拒絶、だるくなる

 

「炭水化物のほとんどに入っている」

確かにそうですよね。

脳はブドウ糖しか受け付けないし・・・確かに。

帰り道にドンドコ、ドンドコ電車に揺られながら、ボーっとしていると

ビンゴ!

点と点が繋がった!

 

これはもう、理性を介しての理解では無いので、うまく説明できません。

それでも糖=母親>

私の脳内では、なぜか母親と糖質は同一視されていたのです。

潜在意識とでも言うべきなのか・・?

生きるために必要だけれど、炎症も起こす食べ物

良いものだけれどネガティブな面もある母親

繋がるのです。

 

幼い頃はまだしも、

成人しても、結婚しても、私自身が母になっても

『離さない!』

『母親から離れてはいけない、ずっと子どものままでいないさい』

と暗黙のコマンドを発していたのです。

振り払っても、振り払ってもしがみついてくる母親

 

私の友人は神奈川から青森まで逃げましたけど、

彼女の母親は、縁を辿って青森まで追いかけて行きました。

 

私にとっては母は慈愛の存在でもあるけれど

子を食い殺そうとする鬼子母でもある。

 

良いものだけれど、悪いもの

良いものの中に悪いものが混ざっている、だから信用できない

糖質は身体に必要な物だけれど、同時に体に良くないものでもある。

 

アレルギーの完成ですね。

全く意識の外にあった概念だったので、久々にびっくりしました。

おかげ様で、もちろんアレルギーと一緒に母親との関係にも気づき

解除です。

身体がスッキリ

それに積年の謎も解けたし、最近困っていた事も解決。

ありがたいです。

そして、この後また思わぬことが分かって、そちらも大団円なのですが

幼いころから食べてたママの味が、まさか?の・・・だったり

本こわ的な話が合ったり

これもまた、後で機会があったら

では、今日はここまでで  see you.

 

 

 

 

 

 

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ABOUTこの記事をかいた人

ようこそ、いらっしゃいませ。あなたが来てくれてうれしいです 振り返ってみると幼い頃の記憶は幼稚園の入園式から、それ以前はあやふやです。小学生の頃の夢は宇宙飛行士、中学生の頃は漫画家。けど誰にも言えなくて、もっと現実的な美術系の学校に行くことにしました。 でも、大学受験コケました。合格圏にいたはずの4年生大学を面接で失敗、その年は補欠の繰り上がりも無く、あえなく短大へ。人生の厳しさを知った春でした。ショックだった。でも今思うと、それは必然だったと思う。だって、その短大に行かないと出会えないと言う人が未来で待っていたから。いわゆる前世の恋人。 前世をトレースするかのように恋をして、同じように破局しました。私としては成就させたかったのだけれど・・ ここでも、ショックでフリーズした私を見逃さなかったのが実の母。 失恋の痛手で自己愛も自尊心も遥かにゼロに近くなっていた私は母の言いなりに見合いをして結婚してしました。 そこからが魂の修行の日々、過酷だったあ。 結婚して7年間は本当の自分を箱に入れて、母の言いなり、お人形のような生活に甘んじました。 7年目の早春、はっと我に返って唖然としました。 嫌いなものを黙って受け入れた人生は、大嫌いなもので満ち溢れていました。ウンザリしました。乳飲み子を含む三人の子どもがいて、介護一歩手前の祖父母がいて、しがみついて話さない母親、好みじゃない夫。 ここから私がもともといた場所までは遥かに遠い、地の果てまで飛ばされたかのようです。 ここから自分を取り戻していく泥沼を歩くような人生が始まりました。 手始めに人生で初めて母に「NO!」と言い、ついでに夫にも「これ以上子どもは生まないから。」と言いました。 弱い、と思っていた存在が逆らうと、ハチの巣を突っついたような気分になるようで、二人からの風当たりは強くなりました。 それでも後戻りする気はないし、前進あるのみ、心理学を学び、精神世界へ足を踏み入れました。そのうち直観力も自然に身につき、良きメンターに巡り合いました。 今思えば敵と思っていた存在が一番のメンターだったかもしれない。彼らがいなくて、ただの幸せな人生だったら、ここまで来なかった。 今、使命を実行できるのも彼らのおかげです。この場を借りて「ありがとう」