あなたは何のために生まれて来るのか?

SNSに、気になるフレーズがありました。

『あなたは喜びを経験するために生まれてきた』

ページを離れても気になって、再確認しようとしたら、もう見つかりません(苦笑)

だけど何とな~く、モヤモヤします。

 

人生ってそんな簡単に一括りに出来るものですかねえ?

喜びって何だろう?

  • アフタヌーンティーに舌鼓を打つのも、嬉しいだろうし
  • ポーカーで勝ちまくる、カラオケを満喫も喜ばしいちゃ、喜ばしい
  • 赤ちゃんの誕生も、業績アップも喜びだろう。
  • 落とし物を届け喜ばれるのも、そりゃあ嬉しいさあ

 

何がどうなってるとあなたは喜ぶの?

幸せになりたい・・と同じようなものかしら?

 

だとしたら、それは結果であって目的ではないでしょう。

私と言う自我は、幸せかどうか喜びがあるかどうかめっちゃ気にすると思うけど、

魂的な根源はそこは気にしないでしょう?

フォーカスが違うのではないかしら?

<自我=私>が喜ぼうが、幸不幸のどちらであろうが、経験したいものがあれば取りに行く。

そう言う感じがします。

魂が経験を切望しているのに、自我が

「ええ?あれは不幸になるからやだ、こっちは我慢ばっかりだから止めておこう。」

と文句言って選択を渋ると途端にエネルギーダウンしてしまう。

 

だから、目的を決める時には、<自我と魂>と一致させてね。

でも私達の中にはポジティブなだけじゃなくて、ネガティブなものもある

まずはそこを整理する事がスタート。

だから、どこかの広告のように簡単に掲げて良いものかな?と疑問に感じます。

だって、私たちは喜びを感じるために来たのではなくて

成長するために生まれて来たのだから

成長しそうな経験を次々と積み重ね、その結果、あるいはご褒美的に幸せや、喜びがついてくる

「これ、喜び係数は高いけど、幸せ指数がマイナス、だから嫌」

って、そっぽを向いていたら、私たちはいつまでたっても成長せずこの重い地球の重力に捕らわれたままです。

 

不幸になれ!って言ってるわけではないのですが、せめて結果と目的を間違えないようにしないとね

東京に行きたいのに青森行の電車に乗ったら、そりゃあヤバいでしょ( ´∀` )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ABOUTこの記事をかいた人

ようこそ、いらっしゃいませ。あなたが来てくれてうれしいです 振り返ってみると幼い頃の記憶は幼稚園の入園式から、それ以前はあやふやです。小学生の頃の夢は宇宙飛行士、中学生の頃は漫画家。けど誰にも言えなくて、もっと現実的な美術系の学校に行くことにしました。 でも、大学受験コケました。合格圏にいたはずの4年生大学を面接で失敗、その年は補欠の繰り上がりも無く、あえなく短大へ。人生の厳しさを知った春でした。ショックだった。でも今思うと、それは必然だったと思う。だって、その短大に行かないと出会えないと言う人が未来で待っていたから。いわゆる前世の恋人。 前世をトレースするかのように恋をして、同じように破局しました。私としては成就させたかったのだけれど・・ ここでも、ショックでフリーズした私を見逃さなかったのが実の母。 失恋の痛手で自己愛も自尊心も遥かにゼロに近くなっていた私は母の言いなりに見合いをして結婚してしました。 そこからが魂の修行の日々、過酷だったあ。 結婚して7年間は本当の自分を箱に入れて、母の言いなり、お人形のような生活に甘んじました。 7年目の早春、はっと我に返って唖然としました。 嫌いなものを黙って受け入れた人生は、大嫌いなもので満ち溢れていました。ウンザリしました。乳飲み子を含む三人の子どもがいて、介護一歩手前の祖父母がいて、しがみついて話さない母親、好みじゃない夫。 ここから私がもともといた場所までは遥かに遠い、地の果てまで飛ばされたかのようです。 ここから自分を取り戻していく泥沼を歩くような人生が始まりました。 手始めに人生で初めて母に「NO!」と言い、ついでに夫にも「これ以上子どもは生まないから。」と言いました。 弱い、と思っていた存在が逆らうと、ハチの巣を突っついたような気分になるようで、二人からの風当たりは強くなりました。 それでも後戻りする気はないし、前進あるのみ、心理学を学び、精神世界へ足を踏み入れました。そのうち直観力も自然に身につき、良きメンターに巡り合いました。 今思えば敵と思っていた存在が一番のメンターだったかもしれない。彼らがいなくて、ただの幸せな人生だったら、ここまで来なかった。 今、使命を実行できるのも彼らのおかげです。この場を借りて「ありがとう」