誰にも言えない旅の話/まさかのドタドタキャン!

実はここだけの話ですが・・・

2023年の2月の末、私は旅に出るはずでした。

2泊3日/九州の旅です、旅程は以下のよう。

  1. 羽田から飛行機に乗って、ブ~ンと長崎へ行く
  2. レンタカーで雲仙→佐賀→めぐる
  3. 帰路は飛行機で帰って来る。

ところが・・・

My first  time/予定通りに行かない

出発を明日に控えた時・・あれ?あれあれ?

なんか変、体調が・・あれ?

首を傾げている間に微熱が・・・・

すぐにメンターに連絡しました。

(私にもいるんですねえ、そう言う存在が)

すぐに返事が来て

【熱は出るべくして出るもの、浄化反応。

大丈夫と思えば大丈夫】

漢前~~~!

(そっかぁ、浄化反応ならだれにも迷惑かけないかあ!)

すぐにヒーリングしちゃる、

と言う流れになり、その夜は荷造りが終わるとすぐに布団に入りました。

浄化反応と言う事なら、大丈夫でしょう。

以前に山登りの数日前に熱が出て、自力でヒーリングを繰り返して事なきを得たと言う経験があります。

あれかあ、あのパターンね。

 

都内で、グルグル/羽田にたどり着けない

明けて、早朝、羽田に向かいました。

熱は・・?

平熱です。(さすがあ)

予定よりも早く家を出ました。

出発時間の90分前に着く予定。

品川から京急で羽田に向かうルートを選択。

最近はいつもこれです。

品川の駅で改札を抜けて、京急のホームで並んでいると

何気に見えた看板が・・<成田行き>に見えました。

(ギョッ!ギョッ!間違えた?)

ビックリして、一目散で引き返しました。

今にして思えば、間違えてないんですけどねえ。

頭の中には、もう一つのルートが浮かびます。

(ゆりかもめ?あれか・・・あれに乗るんだったのか!)

そして新橋に来て、ゆりかもめに乗って一つ目でハッと気がつきました。

(違う!・・これはアレグリアに行く、あれだ。)

・・振出し(新橋)に戻る。

 

初めての飛行機ロス/・・次の手はどうする?

「次は?・・・今度こそ正解!浜松町だ!!」

なんだか、山の中で同じ道をグルグルさせられてる気分

ああいうのを何て言うんでしたっけ?

浜松町からモノレールに乗って、とにかくドンドコドンドコ、ドンドコドンドコ!

着いた時は、【滑走路に飛行機が出ています】と言う時間。

泣く泣く長蛇の列に並んで、次の便に変更

午前中の便は満席で、午後一時の便になら空席がある、との事

長崎着は午後3時、そこから雲仙を目指したら・・・日暮れ

(運転がヤバいかも・・目が・・)

が、もう選択肢は無いので、席を取る。

「手荷物はどうしますか?」

と聞かれ、いつもなら預かってもらうのだけれど

この日はなぜか

「中に持ち込めますよ。」

と言われて、素直に

「そうします。」

と言ってしまった。

これが後々、良かったのだけれど、もし預けていたら・・・恐

 

腹くくって、朝ごはん食べるぞ!お腹ペコペコだあ

あとは飛行機が出るまで時間があるから、どう過ごすか?と言う話。

真っ先に朝ごはん(とろろ汁の定食♡)を食べて、お茶だあ!お茶するぞ!!

と、なんやかんやで時間を潰して、正午少し前

(ホッカイロを入れているからかしら?・・良く汗をかくなあ)

念のために体温計で測ると、何と37.4度

(嘘でしょ⁇⁇)

まあ、まあ落ち着け、落ち着け~~~。

少し時間をおいて、再度測る。

37.6度

(あり得ない!・・・旅は中止だ!)

その場でレンタカーから宿から、全部キャンセル、キャンセルですわあああ

 

すごすごと退場。

もう、これではどうにもなりません。

大人しく来た道を引き返し、電車に乗りました。

で、空港から離れて、すぐに体温チェック

そしたら、そしたら、一時間もたっていないのですよ。

36.6度・・・えっ?行けば良かった?

夕方に測っても、夜に計っても平熱、ケロっとしている。

もちろん、翌日も平熱。

旅の空のはずの3日間は、家で普通に暮らしました。

 

後日談としてメンターに話すと

バルタン君
バルタン君
護られたね

バルタン君はイメージ登場

自身も、たまたま飛行機に乗れなかった事で事故を免れた人の話みたいだな。

と感じていました。

それで、ニュースを耳をそばだてて聞いていたのですが

大災害の話も大事故の話も聞こえてきません。

一体、私は何から守られたのでしょう?

そして、搭乗手続きのあの時、荷物を預けていたらどうなっていたのでしょう?

あれは偶然?

預けなくて良かったあ。

 

 

 

 

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

ABOUTこの記事をかいた人

ようこそ、いらっしゃいませ。あなたが来てくれてうれしいです 振り返ってみると幼い頃の記憶は幼稚園の入園式から、それ以前はあやふやです。小学生の頃の夢は宇宙飛行士、中学生の頃は漫画家。けど誰にも言えなくて、もっと現実的な美術系の学校に行くことにしました。 でも、大学受験コケました。合格圏にいたはずの4年生大学を面接で失敗、その年は補欠の繰り上がりも無く、あえなく短大へ。人生の厳しさを知った春でした。ショックだった。でも今思うと、それは必然だったと思う。だって、その短大に行かないと出会えないと言う人が未来で待っていたから。いわゆる前世の恋人。 前世をトレースするかのように恋をして、同じように破局しました。私としては成就させたかったのだけれど・・ ここでも、ショックでフリーズした私を見逃さなかったのが実の母。 失恋の痛手で自己愛も自尊心も遥かにゼロに近くなっていた私は母の言いなりに見合いをして結婚してしました。 そこからが魂の修行の日々、過酷だったあ。 結婚して7年間は本当の自分を箱に入れて、母の言いなり、お人形のような生活に甘んじました。 7年目の早春、はっと我に返って唖然としました。 嫌いなものを黙って受け入れた人生は、大嫌いなもので満ち溢れていました。ウンザリしました。乳飲み子を含む三人の子どもがいて、介護一歩手前の祖父母がいて、しがみついて話さない母親、好みじゃない夫。 ここから私がもともといた場所までは遥かに遠い、地の果てまで飛ばされたかのようです。 ここから自分を取り戻していく泥沼を歩くような人生が始まりました。 手始めに人生で初めて母に「NO!」と言い、ついでに夫にも「これ以上子どもは生まないから。」と言いました。 弱い、と思っていた存在が逆らうと、ハチの巣を突っついたような気分になるようで、二人からの風当たりは強くなりました。 それでも後戻りする気はないし、前進あるのみ、心理学を学び、精神世界へ足を踏み入れました。そのうち直観力も自然に身につき、良きメンターに巡り合いました。 今思えば敵と思っていた存在が一番のメンターだったかもしれない。彼らがいなくて、ただの幸せな人生だったら、ここまで来なかった。 今、使命を実行できるのも彼らのおかげです。この場を借りて「ありがとう」