網膜前膜+白内障 / 美味しい病院食

網膜前膜+白内障の手術を受けたのは去年の11月月食のあった日です。

2週間のはずの入院は翌日の診察の結果により

「このまま帰っても良いですよ。」

と言う事になり、びっくりしてせめて一泊させてください。

と、お願いして翌日帰るようにしてもらいました。

なので、私が病院の食事をしたのはたった二日ですが

この二日間の食事の様子をお伝えしてみようと思います。

 

【飲み物の提供は無い】水はどうやって手に入れれば良いのか?

入院前の告知の一つとして、告げられたのが以下の事

『食事の提供はありますが、お茶などの飲み物提供はありません』

友人に話すと

「きっと電子レンジがあるんだよ。」

病院のサイトを見ても、それらしいものは無く、電話で確認するとやはり無い。という返事。

(病人抱えてるのに、水分補給は個人任せなんだ~!)

この難題に対して、私が提示した三つの回答

  1. 山用のガスボンベを持って行く
  2. 災害時用の水で発熱させるセット
  3. 水筒をいっぱい持って行く

病院側が患者に期待していた正解は<一階にあるコンビニまで買いに行く>

と言う事でした。

①は周囲の人間全員に反対され、②と③を実行しました。

入院の際に大小の水筒にお湯をたっぷり入れて持って行き、無くなると

災害時用の水でお湯を作るセットでお湯を作ります。

お湯の原料の水が無くなると一階まで降りて、水を買ってくる。

これを繰り返していました。

 

病院食はエコノミー機内食と思えば良い。

手術の日のランチ

肝心の病院食は味はともあれ一日目は美味しくいただけました。

手術のために早朝に家を出て朝ごはんはつまむ程度、

お昼ご飯は病院から出されたものを半分食べるようにと指示が出て、それだけ。

だから、術後のご飯の美味しかった事。

それに細かい盛り付けとか何も無いので、

まだ良く見えない目には助かりました。

翌日はする事は無く、病室でじっとしているだけなので

段々とご飯が入らなくなってきます。

夕ご飯に、ちょこっと気分を変えてとコンビニで買って来たお惣菜も

翌日に回しました。

手術/翌日のお昼ご飯

手術翌日/夕ご飯

 

そして退院の日の最期の朝ごはん。

退院する日/朝ごはん

(山盛りのご飯・・もう、無理・・こんなに入らん。)

とご飯を三分の一ほど残すと後から看護師さんが

「どうして残したんですか?」

とチェックに来る。

これにも、驚きました。

 

入院中はスプーンもあるし、簡単な箸の動かし方しかしていなかったので

退院して、皿までの距離が測れていない、手前に箸をおいている。

箸を箸を合わせる事が難しい。

と言う事に気づいて、ドキッとしました。

すぐに出来るようになったんですけどね。

 

 

 

 

 

2 件のコメント

  • 手術前はあまり食べられず…。
    術後、たった1個のがとても美味しかったです。
    別の日は、おいなりさんが買ってありました。
    どちらもコンビニで買ったものですが、娘が私が喜ぶであろう品を用意してくれていました。
    こんな時、家族のありがたさが身に沁みますね。

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    ABOUTこの記事をかいた人

    ようこそ、いらっしゃいませ。あなたが来てくれてうれしいです 振り返ってみると幼い頃の記憶は幼稚園の入園式から、それ以前はあやふやです。小学生の頃の夢は宇宙飛行士、中学生の頃は漫画家。けど誰にも言えなくて、もっと現実的な美術系の学校に行くことにしました。 でも、大学受験コケました。合格圏にいたはずの4年生大学を面接で失敗、その年は補欠の繰り上がりも無く、あえなく短大へ。人生の厳しさを知った春でした。ショックだった。でも今思うと、それは必然だったと思う。だって、その短大に行かないと出会えないと言う人が未来で待っていたから。いわゆる前世の恋人。 前世をトレースするかのように恋をして、同じように破局しました。私としては成就させたかったのだけれど・・ ここでも、ショックでフリーズした私を見逃さなかったのが実の母。 失恋の痛手で自己愛も自尊心も遥かにゼロに近くなっていた私は母の言いなりに見合いをして結婚してしました。 そこからが魂の修行の日々、過酷だったあ。 結婚して7年間は本当の自分を箱に入れて、母の言いなり、お人形のような生活に甘んじました。 7年目の早春、はっと我に返って唖然としました。 嫌いなものを黙って受け入れた人生は、大嫌いなもので満ち溢れていました。ウンザリしました。乳飲み子を含む三人の子どもがいて、介護一歩手前の祖父母がいて、しがみついて話さない母親、好みじゃない夫。 ここから私がもともといた場所までは遥かに遠い、地の果てまで飛ばされたかのようです。 ここから自分を取り戻していく泥沼を歩くような人生が始まりました。 手始めに人生で初めて母に「NO!」と言い、ついでに夫にも「これ以上子どもは生まないから。」と言いました。 弱い、と思っていた存在が逆らうと、ハチの巣を突っついたような気分になるようで、二人からの風当たりは強くなりました。 それでも後戻りする気はないし、前進あるのみ、心理学を学び、精神世界へ足を踏み入れました。そのうち直観力も自然に身につき、良きメンターに巡り合いました。 今思えば敵と思っていた存在が一番のメンターだったかもしれない。彼らがいなくて、ただの幸せな人生だったら、ここまで来なかった。 今、使命を実行できるのも彼らのおかげです。この場を借りて「ありがとう」