網膜前膜+白内障 2週間入院のはずが、術後2日目に退院

去年を振り返ると、震え上がります。

きっともっと未来の落ち着いたポイントから振り返れば、納得のいく理由、説明が出来るのでしょうが

今はね・・まだ両手を上げて、もう大丈夫とは言えそうで、どうかな?

 

網膜前膜手術後の一週間が、メガ盛りに恐かったです。

一週間の入院のはずが、手術後2日目帰宅。

それで本当に良いの?

疑問符一杯です。

手術前に説明された難易度の高さが、終わった途端に引き下げられていきます。

(バーゲンセールじゃあるまいに)

手術の翌日に診察を受けて、医者の対応はまるで、占い師みたい。

「手術は成功、どのくらい回復するか?はあなた次第ですよ。」

(それって責任取りたくない人が言うセリフじゃん。)

 

術後の診察の様子

一般外来の患者さんに混じって視力検査、眼底検査などを一通りをしてから、医者の診察。

医者は渡神視力検査の結果も、眼底検査の結果も話さない。

その様子は責任を問われないために、わざと必要以上の情報を与えないようにしているかのよう。

しかも、視力検査の結果をみて不満げに

「もう少し良くなると思っていたんですけど・・・

今は手術したばかりだから、これから良くなることに期待します」

この言い方、危険信号ガンガンの言い方じゃん!

「今日このまま帰りますか?もう少し長くいますか?」

「えええええ?絶句ですわ」

「せめて、もう一泊させてください」

と言いました。

さすがに、そのまま帰れと言われてもハイとは即答できません。

2週間の入院って言うから、そのつもりで用意してきたのに・・・

口に出せない、不安や疑いを一杯抱えて、

翌日病院を出ました。

建物を出ると日差しが眩しくて、すぐにサングラスをかけましたよ。

 

 

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ようこそ、いらっしゃいませ。あなたが来てくれてうれしいです 振り返ってみると幼い頃の記憶は幼稚園の入園式から、それ以前はあやふやです。小学生の頃の夢は宇宙飛行士、中学生の頃は漫画家。けど誰にも言えなくて、もっと現実的な美術系の学校に行くことにしました。 でも、大学受験コケました。合格圏にいたはずの4年生大学を面接で失敗、その年は補欠の繰り上がりも無く、あえなく短大へ。人生の厳しさを知った春でした。ショックだった。でも今思うと、それは必然だったと思う。だって、その短大に行かないと出会えないと言う人が未来で待っていたから。いわゆる前世の恋人。 前世をトレースするかのように恋をして、同じように破局しました。私としては成就させたかったのだけれど・・ ここでも、ショックでフリーズした私を見逃さなかったのが実の母。 失恋の痛手で自己愛も自尊心も遥かにゼロに近くなっていた私は母の言いなりに見合いをして結婚してしました。 そこからが魂の修行の日々、過酷だったあ。 結婚して7年間は本当の自分を箱に入れて、母の言いなり、お人形のような生活に甘んじました。 7年目の早春、はっと我に返って唖然としました。 嫌いなものを黙って受け入れた人生は、大嫌いなもので満ち溢れていました。ウンザリしました。乳飲み子を含む三人の子どもがいて、介護一歩手前の祖父母がいて、しがみついて話さない母親、好みじゃない夫。 ここから私がもともといた場所までは遥かに遠い、地の果てまで飛ばされたかのようです。 ここから自分を取り戻していく泥沼を歩くような人生が始まりました。 手始めに人生で初めて母に「NO!」と言い、ついでに夫にも「これ以上子どもは生まないから。」と言いました。 弱い、と思っていた存在が逆らうと、ハチの巣を突っついたような気分になるようで、二人からの風当たりは強くなりました。 それでも後戻りする気はないし、前進あるのみ、心理学を学び、精神世界へ足を踏み入れました。そのうち直観力も自然に身につき、良きメンターに巡り合いました。 今思えば敵と思っていた存在が一番のメンターだったかもしれない。彼らがいなくて、ただの幸せな人生だったら、ここまで来なかった。 今、使命を実行できるのも彼らのおかげです。この場を借りて「ありがとう」