人を許しているつもりが、自分を救っている

今年一年を振り返ると、許しと言うものを考えさせられる一年でした。

<許し>と言うのは言い換えると

あの蜘蛛の糸、芥川龍之介のあのお話、あれのことよ。

あれは許しと言うものをうまく表現していると思う。

 

だけど、人間とは未熟なもので

『許してください』

と言われると

生殺与奪件を与えられたと勘違いする・・人が多い。

 

許しを乞われた本人は、相手の心臓を握りしめたような優越感を感じているのかもしれないけれど

まな板の上に乗ったのは許してください、

と言った人ではない。

 

自分が垂らしているつもりの蜘蛛の糸は自分のところに降りてきている。

本当にまな板に乗ったのは・・わかるよね。

許しを乞われた方の人間なのだ。

この時確かに、天国に生きるか、地獄に生きるかの選択権が委ねられたけれど

誰のか?と問われれば、許しを求められた人のだ。

 

自分は相手の命運を握ったと思っているかもしれないが

実は、握りしめているのは自分の運命だったりする。

だから・・・

出来ようができまいが、背伸びしていようが

『許します!』

と言ったもの勝ち。

 

たとえ瞬間的にしか許せなかったしても、

その瞬間、あなたは天国に生きることに同意したことになる。

そして、人間は過去をベースに生きるものなので

この先、あなたは天国に生きた自分をベースに選択をしていくことが許される。

天国を基に生きていける。

一度できた事は何度でも出来る。

次はもっと簡単に出来る、と言うことだ。

 

そして、許さない。

と言う選択をした人は、当然蜘蛛の糸は切られる。

明日も怨念の地獄を生きることになる。

健康と運命が左右されるのも、当然の理だ。

 

 

 

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

ABOUTこの記事をかいた人

ようこそ、いらっしゃいませ。あなたが来てくれてうれしいです 振り返ってみると幼い頃の記憶は幼稚園の入園式から、それ以前はあやふやです。小学生の頃の夢は宇宙飛行士、中学生の頃は漫画家。けど誰にも言えなくて、もっと現実的な美術系の学校に行くことにしました。 でも、大学受験コケました。合格圏にいたはずの4年生大学を面接で失敗、その年は補欠の繰り上がりも無く、あえなく短大へ。人生の厳しさを知った春でした。ショックだった。でも今思うと、それは必然だったと思う。だって、その短大に行かないと出会えないと言う人が未来で待っていたから。いわゆる前世の恋人。 前世をトレースするかのように恋をして、同じように破局しました。私としては成就させたかったのだけれど・・ ここでも、ショックでフリーズした私を見逃さなかったのが実の母。 失恋の痛手で自己愛も自尊心も遥かにゼロに近くなっていた私は母の言いなりに見合いをして結婚してしました。 そこからが魂の修行の日々、過酷だったあ。 結婚して7年間は本当の自分を箱に入れて、母の言いなり、お人形のような生活に甘んじました。 7年目の早春、はっと我に返って唖然としました。 嫌いなものを黙って受け入れた人生は、大嫌いなもので満ち溢れていました。ウンザリしました。乳飲み子を含む三人の子どもがいて、介護一歩手前の祖父母がいて、しがみついて話さない母親、好みじゃない夫。 ここから私がもともといた場所までは遥かに遠い、地の果てまで飛ばされたかのようです。 ここから自分を取り戻していく泥沼を歩くような人生が始まりました。 手始めに人生で初めて母に「NO!」と言い、ついでに夫にも「これ以上子どもは生まないから。」と言いました。 弱い、と思っていた存在が逆らうと、ハチの巣を突っついたような気分になるようで、二人からの風当たりは強くなりました。 それでも後戻りする気はないし、前進あるのみ、心理学を学び、精神世界へ足を踏み入れました。そのうち直観力も自然に身につき、良きメンターに巡り合いました。 今思えば敵と思っていた存在が一番のメンターだったかもしれない。彼らがいなくて、ただの幸せな人生だったら、ここまで来なかった。 今、使命を実行できるのも彼らのおかげです。この場を借りて「ありがとう」