人生は参加する事に価値があるのか?勝たないと価値がないのか?

人生の勝者とは誰の事なのか?

年商1億、10億稼げば勝者なのだろうか?

万人から愛され、注目を浴びれば勝者なのだろうか?

オリンピックでは金メダルを取る事が一番、と言われるけれど

同時に <参加する事に意義がある> とも言われる。

人生は<参加する事に意義がある> これなんじゃないだろうか?と思う事がある。

 

生きるならば何某かの結果を出さなければならない?

成功する事だけに価値や意義があるのだろうか?

安全に生きる事だけが奨励されるべき事なのか?

善と悪、成功と失敗、幸せと不幸

物事を二つに分けてしまうと、結果は二分の一になってしまう。

 

確かに結果を得る事も必要だろう。

森で狩りをする時に、狩りが無駄に終われば消耗するだけになってしまう。

だけど、人生それだけではないだろう。

という気がする。

 

結果を出すと言う事にフォーカスが当たって来たのは、もしかして今の社会形態になってから?

負け犬の遠吠え的発想だろうか?

結果を気にする前に、結果に捕らわれずに逞しく生きると言う段階があるような気がする。

海老でタイを釣るのも良いけれど、タイは獲れるかもしれないし、獲れないかもしれない。

それでも、やるよ。

って言う段階があるんじゃないだろうか?

じゃないと経験が歪むと言うか、引き出しが増えないと言うか

なんかうまく言えないけれど、そんな気がします。

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ようこそ、いらっしゃいませ。あなたが来てくれてうれしいです 振り返ってみると幼い頃の記憶は幼稚園の入園式から、それ以前はあやふやです。小学生の頃の夢は宇宙飛行士、中学生の頃は漫画家。けど誰にも言えなくて、もっと現実的な美術系の学校に行くことにしました。 でも、大学受験コケました。合格圏にいたはずの4年生大学を面接で失敗、その年は補欠の繰り上がりも無く、あえなく短大へ。人生の厳しさを知った春でした。ショックだった。でも今思うと、それは必然だったと思う。だって、その短大に行かないと出会えないと言う人が未来で待っていたから。いわゆる前世の恋人。 前世をトレースするかのように恋をして、同じように破局しました。私としては成就させたかったのだけれど・・ ここでも、ショックでフリーズした私を見逃さなかったのが実の母。 失恋の痛手で自己愛も自尊心も遥かにゼロに近くなっていた私は母の言いなりに見合いをして結婚してしました。 そこからが魂の修行の日々、過酷だったあ。 結婚して7年間は本当の自分を箱に入れて、母の言いなり、お人形のような生活に甘んじました。 7年目の早春、はっと我に返って唖然としました。 嫌いなものを黙って受け入れた人生は、大嫌いなもので満ち溢れていました。ウンザリしました。乳飲み子を含む三人の子どもがいて、介護一歩手前の祖父母がいて、しがみついて話さない母親、好みじゃない夫。 ここから私がもともといた場所までは遥かに遠い、地の果てまで飛ばされたかのようです。 ここから自分を取り戻していく泥沼を歩くような人生が始まりました。 手始めに人生で初めて母に「NO!」と言い、ついでに夫にも「これ以上子どもは生まないから。」と言いました。 弱い、と思っていた存在が逆らうと、ハチの巣を突っついたような気分になるようで、二人からの風当たりは強くなりました。 それでも後戻りする気はないし、前進あるのみ、心理学を学び、精神世界へ足を踏み入れました。そのうち直観力も自然に身につき、良きメンターに巡り合いました。 今思えば敵と思っていた存在が一番のメンターだったかもしれない。彼らがいなくて、ただの幸せな人生だったら、ここまで来なかった。 今、使命を実行できるのも彼らのおかげです。この場を借りて「ありがとう」