人生は四苦八苦だと言うお釈迦様の教えを耳にしたのは確か30代の頃だと思います。
当時の私は受け入れられず反発しました。
だって、それではあまりにも救いがないでしょう?
救いも無く生きる、そんなのは嫌でした!
だから、その教えを放り投げ、私は人生の幸せを求めました。
私たちは幸せになるために生まれ来た、そう思いたかったのです。
物語のラストがハッピーエンドであるように、未来では、幸せが待っていてほしかった。
私の育った家庭は、今風に言えばDV家庭。
暴力を振るうのは、枯れ木のように痩せた老女。
一度切れると、理屈が通らず、手に追えなくなりました。
家族の中の誰も、彼女を正すことが出来きず、理不尽がまかり通る家庭でした。
母は奴隷のようであり、私は奴隷の子どもでした。
(そんなのは嫌だ!)
例え、現実の人間関係が修羅のようであっても、世界のどこかには優しい人たちがいて欲しい。
そして、いつか私も、その人たちの仲間入りがしたい。
私も平和な家庭で慈しまれたかった。
砂糖菓子のような幸せがほしい。
だけど、頑張っても、我慢しても、幸せは遠かったなあ。
幸せは未来にあるもので、今はいつも足りない。
自分のここを変えて、あそこを整えて人生の出来事を取り替えて、登場人物も取り替えれば、たどり着く?
いつかたどり着く予定の、幸せ。
でも、届かない。
全てに満足し、穏やかで、みんなから愛される、求められる。
ある人は人生はそんなものじゃない、と言ったけれど、私は耳を塞ぎました。
認めたくなかった。
だけど、よくよく考えれば、野生の世界に幸せを目的として生まれてくる生き物はいません。
野生の世界は非情です。
生き物は生きるためにベストを尽くすだけです。
もしかしたら、〈幸せ〉と言うものの捉え方が違うのかもしれない・・
安全を求めるなら、安全に生きようとしてはならないように
幸せに生きたいのなら・・あえて・・なのかしら?
今ここで、四の五の言わずベストを尽くす?
《幸せ》と言う概念その物を、更新する必要があるのかもしれない。
幸せ=フワフワとした楽園
では無いのかもし知れない。
どうも、全てが満たされることが、幸せと言うわけではないのらしいです
それは大いにあり得る・・ですよね。
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