ペルー/風が通り過ぎる遺跡の中の唄歌い

ペルーの旅は順調でした。

国内から同行の添乗員、ペルー在住の日本人ガイド、主にこの二人の男性が旅を仕切ってくれていました。

旅の中盤には聖なる谷オリャンタイタンボまで来ました。

 

ここは一般的に言うと不思議な地形です。

でも、見るものが見れば、過去の洪水が現実の風景に重なって見えるような場所でした。

水害の二文字があからさまに見えるのに、誰も何も言わない、そう言う谷です。

 

荒涼とした土地に土をかぶったようなお土産屋さんが続き、歩いて遺跡の中に入って行きます。

ここにもあらゆる国からの観光客が来ています。

日本人の私たちはガイドからはぐれないように割と優等生に固まって移動していました。

遺跡の少し高めに石が組まれたところに、かわいらしい服を着たインディオの女の子が二人ポツンと座っています。

二人はお互いに身を寄せ合ってピッタリとくっついています。

そうする事できっと安心しているのでしょう。

 

白人の女の子が切るようなフリルたっぷりのスカート、パフスリーブの袖。

決してインディオの文化ではありません。

遺跡に入る前に現地ガイドからは唄歌いは無視するように、と注意されています。

日本人は唄歌いがどんなものなのか知りもしないので、

「は~い♪」と軽く済ませていましたが、これがその唄歌いらしいのです。

何とも言葉を失う、海外と言うフィールドの厳しさ。

女の子たちは日本人ガイドに何やら声をかけます。

「お歌は歌わないで良いの」

「歌は必要ない」

私たちに聞かせるためでしょうか、敢えて日本語で言っています。

 

ただの観光客である私たちは、その場を去るしかないのですが

映画<スラムダンクミリオネア>を地で行ってます。

遺跡の中にポツンと置かれた女の子二人。

虫籠に捕まった蝶々のようです。

この子たちが日本の同世代の子ども達のように生きる事は不可能でしょう。

 

二次成長が始まる頃、何が待っているのか?

想像するだけで心が痛くなります。

スラムダンクミリオネア・・

命は生きるために全ての力を使うのでしょう。

ペルーは日本人の私に生きる事の厳しさを見せてくれます。

日本が気に入らない日本人は、海外に一度出てみると良いと思います。

よっぽどマシだと思う事が海外には普通にありますよ。

 

 

 

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ようこそ、いらっしゃいませ。あなたが来てくれてうれしいです 振り返ってみると幼い頃の記憶は幼稚園の入園式から、それ以前はあやふやです。小学生の頃の夢は宇宙飛行士、中学生の頃は漫画家。けど誰にも言えなくて、もっと現実的な美術系の学校に行くことにしました。 でも、大学受験コケました。合格圏にいたはずの4年生大学を面接で失敗、その年は補欠の繰り上がりも無く、あえなく短大へ。人生の厳しさを知った春でした。ショックだった。でも今思うと、それは必然だったと思う。だって、その短大に行かないと出会えないと言う人が未来で待っていたから。いわゆる前世の恋人。 前世をトレースするかのように恋をして、同じように破局しました。私としては成就させたかったのだけれど・・ ここでも、ショックでフリーズした私を見逃さなかったのが実の母。 失恋の痛手で自己愛も自尊心も遥かにゼロに近くなっていた私は母の言いなりに見合いをして結婚してしました。 そこからが魂の修行の日々、過酷だったあ。 結婚して7年間は本当の自分を箱に入れて、母の言いなり、お人形のような生活に甘んじました。 7年目の早春、はっと我に返って唖然としました。 嫌いなものを黙って受け入れた人生は、大嫌いなもので満ち溢れていました。ウンザリしました。乳飲み子を含む三人の子どもがいて、介護一歩手前の祖父母がいて、しがみついて話さない母親、好みじゃない夫。 ここから私がもともといた場所までは遥かに遠い、地の果てまで飛ばされたかのようです。 ここから自分を取り戻していく泥沼を歩くような人生が始まりました。 手始めに人生で初めて母に「NO!」と言い、ついでに夫にも「これ以上子どもは生まないから。」と言いました。 弱い、と思っていた存在が逆らうと、ハチの巣を突っついたような気分になるようで、二人からの風当たりは強くなりました。 それでも後戻りする気はないし、前進あるのみ、心理学を学び、精神世界へ足を踏み入れました。そのうち直観力も自然に身につき、良きメンターに巡り合いました。 今思えば敵と思っていた存在が一番のメンターだったかもしれない。彼らがいなくて、ただの幸せな人生だったら、ここまで来なかった。 今、使命を実行できるのも彼らのおかげです。この場を借りて「ありがとう」