1ドルと1ソルは似ているけど、価値が違う。

私が旅した頃は、日本円は1ドル約100円でした。

ペルーではドルと、もう一つペルー独自の通貨ソルが使えます。

1ドルが100ソルくらいだったかな?

 

ペルーではほとんどの産業は白人に仕切られていて、インディオは経済から弾き出されています。

初めて、格差というものを目の当たりにしました。

観光客向けにお土産を売るなどの事でしか、インディオの人々の経済活動は成り立たないように見えました。

マックに行くとか、スタバに行くとか、当たり前にしている事が高額で裕福な人しか行けないのです。

ショッピングモールで普段着で普通に歩いている人がすでに、この国のエリートです。

白人は衣食住に不足のないシティに暮らし、インディオはアパルトヘイト?と呼ばれるような所

もしくは荒涼とした丘陵に暮らし、給水車が水の供給をします。

国土が広いから、次々に丘陵にインディオの家がたち、国も黙認なのだそうです。

 

ペルーはレアメタルなどで潤っているそうですが、インディオはとても貧しい、と聞きました。

旅の途中、小学生くらいの女の子からペンダントを買いました。

お土産売りが後をついてくることがあるのです。

お子様だし、これも旅先のイベントと購入。

1ソルと言うので紙幣を渡すと女の子は喜んで走って行きました。

何で?・・と思ってハッとしましたが後の祭り。

間違えて1ドル渡したらしいのです。

(・・・・やっちまったぜ)

そのお金で彼女とその家族が美味しい夕ご飯を食べられれば、良いお金の循環をした。

と思えるさ。

 

歴史的な背景もあり、ペルーは生きる事の陰影を鮮やかに見せくれる国です。

生きるために出来る事は全員がしている、という感じです。

真剣に生きてる。

 

クーラーなんか無いからね、自分の体温調節機能が頼りよ。

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ようこそ、いらっしゃいませ。あなたが来てくれてうれしいです 振り返ってみると幼い頃の記憶は幼稚園の入園式から、それ以前はあやふやです。小学生の頃の夢は宇宙飛行士、中学生の頃は漫画家。けど誰にも言えなくて、もっと現実的な美術系の学校に行くことにしました。 でも、大学受験コケました。合格圏にいたはずの4年生大学を面接で失敗、その年は補欠の繰り上がりも無く、あえなく短大へ。人生の厳しさを知った春でした。ショックだった。でも今思うと、それは必然だったと思う。だって、その短大に行かないと出会えないと言う人が未来で待っていたから。いわゆる前世の恋人。 前世をトレースするかのように恋をして、同じように破局しました。私としては成就させたかったのだけれど・・ ここでも、ショックでフリーズした私を見逃さなかったのが実の母。 失恋の痛手で自己愛も自尊心も遥かにゼロに近くなっていた私は母の言いなりに見合いをして結婚してしました。 そこからが魂の修行の日々、過酷だったあ。 結婚して7年間は本当の自分を箱に入れて、母の言いなり、お人形のような生活に甘んじました。 7年目の早春、はっと我に返って唖然としました。 嫌いなものを黙って受け入れた人生は、大嫌いなもので満ち溢れていました。ウンザリしました。乳飲み子を含む三人の子どもがいて、介護一歩手前の祖父母がいて、しがみついて話さない母親、好みじゃない夫。 ここから私がもともといた場所までは遥かに遠い、地の果てまで飛ばされたかのようです。 ここから自分を取り戻していく泥沼を歩くような人生が始まりました。 手始めに人生で初めて母に「NO!」と言い、ついでに夫にも「これ以上子どもは生まないから。」と言いました。 弱い、と思っていた存在が逆らうと、ハチの巣を突っついたような気分になるようで、二人からの風当たりは強くなりました。 それでも後戻りする気はないし、前進あるのみ、心理学を学び、精神世界へ足を踏み入れました。そのうち直観力も自然に身につき、良きメンターに巡り合いました。 今思えば敵と思っていた存在が一番のメンターだったかもしれない。彼らがいなくて、ただの幸せな人生だったら、ここまで来なかった。 今、使命を実行できるのも彼らのおかげです。この場を借りて「ありがとう」