水に浮かぶ一輪の睡蓮のように

それまでただの知識がストンと胸に落ちる時、一瞬で点と点が繋がる!と言う経験をした事はありますか

一瞬でつながると言うそれは、AIの情報処理のプロセスを思わせます。

そう言うのって、シンクロニシティとフラクタルな構造が大きな効果を生み出しているんじゃないかなあ?

そんな気がしませんか?

無意識の領域から傷が浮かび上がってくると、それと同じ周波数のものが連携してい浮かび上がってくるはずです。

時も場所も違うそれらのものの共通項を見つけ、辿って行けば、根本原因にたどり着く。

 

アセンション前の地球で、ペルーへの旅立つ私は、神との邂逅を楽しみにしていました。

どこで会うのかな?ここで会うのかな?・・次で会うのかな?

が、待てど暮らせど、どこにもそんな神様はいませんでした。

最後に訪れたマチピチュで見た山がそれっぽかったけれど、当たり前すぎて、ガッカリしてました。

なぜなら、私は人型の神が現れると思っていたのです。(笑)

 

神=ヒューマノイド????

だって、スピ系の本とかに出て来る、そう言うのって人型じゃないですか?

だから、人型の神が現れると思っていたのです。

(よく覚えていないけど、光とビームが点滅するような派手な事を望んでいたはずです。)

解ります?私のがっかり感。

さらに不味い事に正解は本に書いてあることで、私の経験は不正解。

と決めつけてしまったのです。

私の能力が足りないから、奇跡が起きなかった。とか

私は神に見捨てられてるのよ・・・とか

幼い発想と言えば、それまでなんですけどねえ。

自分の方が正解だ、という発想が無かったのです。

その頃はオーラも肉眼で見ていましたから、<見える>は当然に思えたのでしょう。

 

【見える】と言う事に捕らわれると本質を見失う。

5感だけで正解をだそうとすると、それは無い。と言う事になってしまう。

見えない、聞こえない、匂わない、味がしない、実体がない。

そもそも5感でとらえられる領域と、それ以上の感覚でとらえられる領域とではどちらが広いのか?

どちらが周波数が高いのか?と言う事です。

5感以上の領域から来る情報を五感で説明しようとすると、情報そのものを失ってしまう。

5感の中にそれは無いからです。

見えなくても、5つの感覚器官で感じ取れなくても、そこにある。

それを理解し、信じる。

見えない(捉えられない)=非存在、では幼いと言う事です。

(私は幼かったぁ・・・今も幼いけどなあ。)

ここまで話して、思い浮かぶのが、あのアファメーション。

 

【私は自己を神の意思にゆだねます】

 

確証が無くても、保証が無くても、私は深淵な宇宙の導きを信じます。という誓い。

確証が無くても信じる、と言うのは私たちの人生のテーマの一つなのかもしれません。

そんな気がしませんか?

繋がっているかどうか確認しようとすると逸してしまう。

目に見える証拠は何もない。

それでも常に宇宙の深淵との繋がりを信じ、確証も無い、成果も確認できない人生を受け入れますか?

一見孤立無援に見えるけれども、常に宇宙の深淵と繋がっている。

欲しいものと一致するかは疑問だけれど、必要なサポートは全て得られる。

あなたの確認したいと言う気持ち、見える物の中に答えを探す癖が、あなたの障壁です。

探そうとすると、答えを見つけようとするとがっかりしますよ。

あなたが力を抜き水面に浮く、一輪の睡蓮のようになった時に、確かなつながりを感じるようになるでしょう。

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ABOUTこの記事をかいた人

ようこそ、いらっしゃいませ。あなたが来てくれてうれしいです 振り返ってみると幼い頃の記憶は幼稚園の入園式から、それ以前はあやふやです。小学生の頃の夢は宇宙飛行士、中学生の頃は漫画家。けど誰にも言えなくて、もっと現実的な美術系の学校に行くことにしました。 でも、大学受験コケました。合格圏にいたはずの4年生大学を面接で失敗、その年は補欠の繰り上がりも無く、あえなく短大へ。人生の厳しさを知った春でした。ショックだった。でも今思うと、それは必然だったと思う。だって、その短大に行かないと出会えないと言う人が未来で待っていたから。いわゆる前世の恋人。 前世をトレースするかのように恋をして、同じように破局しました。私としては成就させたかったのだけれど・・ ここでも、ショックでフリーズした私を見逃さなかったのが実の母。 失恋の痛手で自己愛も自尊心も遥かにゼロに近くなっていた私は母の言いなりに見合いをして結婚してしました。 そこからが魂の修行の日々、過酷だったあ。 結婚して7年間は本当の自分を箱に入れて、母の言いなり、お人形のような生活に甘んじました。 7年目の早春、はっと我に返って唖然としました。 嫌いなものを黙って受け入れた人生は、大嫌いなもので満ち溢れていました。ウンザリしました。乳飲み子を含む三人の子どもがいて、介護一歩手前の祖父母がいて、しがみついて話さない母親、好みじゃない夫。 ここから私がもともといた場所までは遥かに遠い、地の果てまで飛ばされたかのようです。 ここから自分を取り戻していく泥沼を歩くような人生が始まりました。 手始めに人生で初めて母に「NO!」と言い、ついでに夫にも「これ以上子どもは生まないから。」と言いました。 弱い、と思っていた存在が逆らうと、ハチの巣を突っついたような気分になるようで、二人からの風当たりは強くなりました。 それでも後戻りする気はないし、前進あるのみ、心理学を学び、精神世界へ足を踏み入れました。そのうち直観力も自然に身につき、良きメンターに巡り合いました。 今思えば敵と思っていた存在が一番のメンターだったかもしれない。彼らがいなくて、ただの幸せな人生だったら、ここまで来なかった。 今、使命を実行できるのも彼らのおかげです。この場を借りて「ありがとう」