旅:マチピチュの風が私を呼んでいる~♪

最初の海外旅行はペルーでした。

海外どころか国内旅行だって、ろくにしたことありませんでしたので、それはもう一大決心です。

普通なら台湾→ハワイ→ペルーだろう?

と言われたものです( ´∀` )

 

事の始まりは・・ある時、部屋を掃除しているとテレビから聞こえて来た音楽

《コンドルは飛んでいく》

登山列車らしきものが険しい山間を進んでいき、BGMとして<コンドルは飛んでいく>は流れています。

ケーナの音色が切なくて・・・

やがて、列車はマチピチュヘ着き、カメラは遺跡を写して行きます。

なぜか、涙があふれて来ました。

 

辛うじてマチュピチュであると言う事は解りますが、

その場所が世界のどこにあるのか、私は知りませんでした。

どうやったら行けるのか?も知りません。

行き方も、何にも知らない儚い憧れでした。

 

ストップがかかると逆にアクセルが入る人もいるよね

ある夏のお盆、親戚が来て皆で話をしていました。

「マチピチュに行きたい」

と口にしてみると・・

親戚は温い微笑みを浮かべ、母にはこう言われました。

「行けるわけがない」

 

・・・・・・それで決まりでした。

淡い夢物語は、必ず実行するぞ、と言う意志に変りました。

意思があると、手段が届けられる。

そして、また面白い事に、相変わらずマチピチュがどこにあるのか?

どうやって行けば良いのかも知らないまま、いつか必ず行く。と思っていると

どうやったら行けるのか?の答えが届くのです。

例えばこんな感じに、それは届く

たまたま行った銀行の椅子に<風の旅人>という雑誌が置いてありました。

今は廃刊になってしまいましたが、旅行代理店が出している雑誌でした。

それで、日本にはマチピチュヘ行くツアーを企画している会社がある、と初めて知りました。

 

今とならば、マチピチュは観光のメッカで、JTBを始めとして沢山ツアーは出ていると解るのですが、当時は国内旅行もした事が無くて(笑)ここしかない!と決め込んでしまいました。

行くと決めてもすぐに行けるわけでもなく、旅行代理店に問い合わせても、今すぐ行く客でないと相手にはしてくれないんですよね(笑)

何年か相手にしてもらえない時期がありました(笑)

気がつけば、10年・・・成田まで、あとちょっと!

 

 

 

 

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ABOUTこの記事をかいた人

ようこそ、いらっしゃいませ。あなたが来てくれてうれしいです 振り返ってみると幼い頃の記憶は幼稚園の入園式から、それ以前はあやふやです。小学生の頃の夢は宇宙飛行士、中学生の頃は漫画家。けど誰にも言えなくて、もっと現実的な美術系の学校に行くことにしました。 でも、大学受験コケました。合格圏にいたはずの4年生大学を面接で失敗、その年は補欠の繰り上がりも無く、あえなく短大へ。人生の厳しさを知った春でした。ショックだった。でも今思うと、それは必然だったと思う。だって、その短大に行かないと出会えないと言う人が未来で待っていたから。いわゆる前世の恋人。 前世をトレースするかのように恋をして、同じように破局しました。私としては成就させたかったのだけれど・・ ここでも、ショックでフリーズした私を見逃さなかったのが実の母。 失恋の痛手で自己愛も自尊心も遥かにゼロに近くなっていた私は母の言いなりに見合いをして結婚してしました。 そこからが魂の修行の日々、過酷だったあ。 結婚して7年間は本当の自分を箱に入れて、母の言いなり、お人形のような生活に甘んじました。 7年目の早春、はっと我に返って唖然としました。 嫌いなものを黙って受け入れた人生は、大嫌いなもので満ち溢れていました。ウンザリしました。乳飲み子を含む三人の子どもがいて、介護一歩手前の祖父母がいて、しがみついて話さない母親、好みじゃない夫。 ここから私がもともといた場所までは遥かに遠い、地の果てまで飛ばされたかのようです。 ここから自分を取り戻していく泥沼を歩くような人生が始まりました。 手始めに人生で初めて母に「NO!」と言い、ついでに夫にも「これ以上子どもは生まないから。」と言いました。 弱い、と思っていた存在が逆らうと、ハチの巣を突っついたような気分になるようで、二人からの風当たりは強くなりました。 それでも後戻りする気はないし、前進あるのみ、心理学を学び、精神世界へ足を踏み入れました。そのうち直観力も自然に身につき、良きメンターに巡り合いました。 今思えば敵と思っていた存在が一番のメンターだったかもしれない。彼らがいなくて、ただの幸せな人生だったら、ここまで来なかった。 今、使命を実行できるのも彼らのおかげです。この場を借りて「ありがとう」