私たちの本質は<有限の時間>

〈私〉たちはもれなく、全員が限りのある時間の上を歩いています。

そして、もれなく全員がその事に気づかないふりをしています。

死がある日、突きつけられると理不尽なものであるかのようにあわてふためきます。

大体の人が未来は漠然と良くなると信じながら漠然と死を恐れています。

誰かが私たちは肉体だ、と言い。

他の誰かが、いや魂だ、と言い。

また違う誰かは潜在意識だ。と言います。

それだけでは、本当の私たちにはたどり着きません。

私たちの本質とは有限の時間そして空間、それが<私>を形づります。

私たち全員が漏れなく共有するのは

死と誕生、それだけです。

私たちは終わる時間を忘れるために

意識を集中するものを求めます。

何かに夢中になりたい。

何かに心を奪われたい。

そして時間を忘れたい。

けれど、それらのほとんどは肉体を失うと霧散してしまいます。

次元を超えて行く軽さはありません。

誰かが駆け上がろうとするピラミッドは崩壊し、貨幣も紙に還ります。

必死に捕まえていた誰かは、違う次元へ向い、振り替えることもありません。

何が残るのか?

あまねく通用するものはあるのでしょうか?

おそらく愛は残るでしょう。

だけど、それは私たちが知っている愛の概念とは少し違う。

愛は情ではありません。

では、何か?

愛を知るための言葉は無い?もしくは少ない。

私たちはまだ、答えにたどり着いてはいないようです。

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ようこそ、いらっしゃいませ。あなたが来てくれてうれしいです 振り返ってみると幼い頃の記憶は幼稚園の入園式から、それ以前はあやふやです。小学生の頃の夢は宇宙飛行士、中学生の頃は漫画家。けど誰にも言えなくて、もっと現実的な美術系の学校に行くことにしました。 でも、大学受験コケました。合格圏にいたはずの4年生大学を面接で失敗、その年は補欠の繰り上がりも無く、あえなく短大へ。人生の厳しさを知った春でした。ショックだった。でも今思うと、それは必然だったと思う。だって、その短大に行かないと出会えないと言う人が未来で待っていたから。いわゆる前世の恋人。 前世をトレースするかのように恋をして、同じように破局しました。私としては成就させたかったのだけれど・・ ここでも、ショックでフリーズした私を見逃さなかったのが実の母。 失恋の痛手で自己愛も自尊心も遥かにゼロに近くなっていた私は母の言いなりに見合いをして結婚してしました。 そこからが魂の修行の日々、過酷だったあ。 結婚して7年間は本当の自分を箱に入れて、母の言いなり、お人形のような生活に甘んじました。 7年目の早春、はっと我に返って唖然としました。 嫌いなものを黙って受け入れた人生は、大嫌いなもので満ち溢れていました。ウンザリしました。乳飲み子を含む三人の子どもがいて、介護一歩手前の祖父母がいて、しがみついて話さない母親、好みじゃない夫。 ここから私がもともといた場所までは遥かに遠い、地の果てまで飛ばされたかのようです。 ここから自分を取り戻していく泥沼を歩くような人生が始まりました。 手始めに人生で初めて母に「NO!」と言い、ついでに夫にも「これ以上子どもは生まないから。」と言いました。 弱い、と思っていた存在が逆らうと、ハチの巣を突っついたような気分になるようで、二人からの風当たりは強くなりました。 それでも後戻りする気はないし、前進あるのみ、心理学を学び、精神世界へ足を踏み入れました。そのうち直観力も自然に身につき、良きメンターに巡り合いました。 今思えば敵と思っていた存在が一番のメンターだったかもしれない。彼らがいなくて、ただの幸せな人生だったら、ここまで来なかった。 今、使命を実行できるのも彼らのおかげです。この場を借りて「ありがとう」